「先生、私の人生もいつか輝くでしょうか?」はちどり(2018) 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
先生、私の人生もいつか輝くでしょうか?
なによりも、主人公ウニの心情描写のみずみずしさが見事で、震えがくる。
自分が学歴社会の落ちこぼれのくせに、子供をけしかける父親。家庭の事情で勉学を諦めて平凡な男と結婚した母親。鬱屈したストレスを弱者である妹にぶつける兄。ただ同じ時間を過ごしているだけの友達。そんな人間に囲まれた日常に現れた塾講師ヨンジの柔らかな存在感は、窮屈で居場所の不確かなウニにとって、ひとつの指標のように思えた。闇夜の山中で見つけたほのかな人家の灯りのような。
全編にわたり何かを示唆・代弁する表現に胸がざわついて仕方がない。タイトルは未成熟者の足掻きだろうし、耳の下のしこりはウニの心のしこりだろうし、呼びかけても応えのない母はウニの将来への不安や疎外感の表れだろうし、ヨンジの歌う歌は抵抗すれど成せぬ無力感だろうし、崩壊した橋は当時の韓国社会の暗示なのだろう。時代設定が漠然とでなく1994年と明示する意味もそこにある。
劇中、ヨンジがウニに問う。「知り合いは何人いますか?その中で本心まで知っている人は何人いますか?」と。黒板に書かれた「相識満天下、知心能幾人」は、”相知るは天下に満つるも、心を知るは能く幾人ならん 知っている人は何人もいるけれども、心から分かり合える人は沢山はいない”という意味。ちょうど今のウニに響いたのだろうなあ。なんでみんなは私をわかってくれないの、って。でもウニ自身も他人をわかってあげれていないって気付いたのかな。だから、手術や事故を機に、実は父も兄も心が弱く脆いのだと目の当たりにしたとき、お互い仲が悪いと思っていた家族の愛を知ることができたし、その感情は蔑みではなかった。
自分がちっぽけで、何者でもなくて、何をなすこともできない、なんて諦めることはない。ヨンジの言うように、指を動かせるって些細なことさえも「神秘」なのだから。ウニの可能性は、むしろ何も書いていないまっさらなスケッチブックのようなもの。そう、僕の好きな歌に「何も持っていないことは、何でも持っていることと同じ」という歌詞があるのだが、ウニはまさに、今それだ。
ヨンジとの最後をどう受け止めて自分のものにしていくかは、ウニ自身だ。そう思えたとき、ヨンジの言葉が頭に浮かんできた。
「誰かと出会い何かを分かち合う。世界は不思議で美しいわ。」