「記憶って場所や物に宿っていて、あるところに行くと急に思い出すってあるわね。」椿の庭 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
記憶って場所や物に宿っていて、あるところに行くと急に思い出すってあるわね。
「椿」というので待ち構えていると、現れたのは、真っ赤でインパクトのある藪椿ではなくて、淡いバラのような乙女椿だった。しかも、「椿の」というわりには、庭には他の樹木も多く、椿が目立ってはいない。そこは意外だった。
とはいえさすがに、湿気さえ感じ、花の香が通ってくるような麗しい映像美。照明を使わずに、外から屋内に入り込んでくる光のみを活かしているからこそ滲み出てくる日常感。それらが、緩やかな時間の中で熟成されていく。そこに、絹子と亡き夫のふたりが生きてきた時間と空間を感じた。
だいたい、富司純子の佇まいを見ているだけで涙が流れてくる。それはこの映画が彼女のあてがきで描かれているのではないかと思えるくらいに、彼女の魅力であふれているからだ。なるほど劇中の着物は全部彼女の自前なのだそうだ。そりゃあしっくりくるに決まっている。だけど、その所作、着こなし、表情、そこまではやはり彼女個人から醸し出される円熟の個性であった。
この映画は、今まで過ごしてきたこの家をどれだけ愛しているかが伝わるかように、老齢の彼女の歩みのように時間をかけて、家と庭とそこのいる人間たちを映し出す。それは時に凡長にも感じるが、その融通の利かないじれったさこそが絹子の芯の強さの表れに思えた(いやむしろ、強情さと言ったほうがいいのかも)。
その彼女があるきっかけから、人生の終い方を意識し、整理を始める。そして彼女の命の散り際の美しさ、儚さと、抗うことのできぬ虚しさ。そこにこそ、「椿」と名乗る理由があるのだろう。おそらく、冬(人生の終末期、いなくなっていく人間)がすぎ、季節が巡ってあたらしい春(新しい家主、時代)がやってくるメタファとして、花ごとポトリと散る椿を絹子の人生に擬したのだ。おまけにそこには、演じる富司純子自身もカブって見えてくる。だから、まるでこの映画は、富司純子のエンディングノート(映像版)のようにも思えた。
ただ寂しさはあっても、幸いに悲壮感はない。それは、brothers fourの歌う「Try To Remember」の歌声が、幸せだった淡い思い出を彩っているように聞こえるからなのだろう。