「0+1=2」マトリックス レザレクションズ かなり悪いオヤジさんの映画レビュー(感想・評価)
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『マトリックス・トリロジー』のド派手なアクションを期待しているととんでもない肩透かしをくらうことになる。しかし、そのだまされた感は、ウィズ・コロナを余儀なくされている現代社会にとって欠かせないキーワードにつながっていて、SDGs社会を生きていく上で最も必要なセンスを提示している、といっても過言ではないだろう。
“チョイス”が全体のキーワードになっているトリロジーでは、キアヌ・リーブス演じるネオが常に二者択一を迫られる“バイナリー”な展開が印象的だ。0か1か、青いカプセルか赤いカプセルか、マトリックスか現実か、トリニティーへの愛かザイオンの存続か、人間か機械か…..しかし、一方を救えば必ず一方は滅んでいくわけで、結局“チョイス”を繰り返すことによって全体のキャパシティは限りなく0に近づいていくのである。
では、今回のリブート作品は一体何をテーマにすればよいのか。相方のリリーは、折からのハードスケジュールに身内の不幸が重なり早々と離脱を決めてしまう。残されたラナは大いに悩むのである。手堅く原点回帰でいくかそれとも….面白いことに、ワーナーにおけるその喧々諤々の企画会議模様が、いまや世界的ゲームデザイナーと化したトーマス・アンダーソン(キアヌ・リーブス)の次期マトリックスゲーム開発会議となって映画内に取り込まれている。
トリロジーをリアルタイムで見た世代へのセルフオマージュだっで忘れてはいない。すっかり若返ったモーフィアスやスミス、伝説の救世主の力見たさにザイオンならぬアイオに集まったボロ着姿の若者たち。マトリックスに即時移動できる延髄端子だってもちろん健在だ。しかし(オリジナルとは)何かが違う。かつての救世主は、加齢と精神安定剤のオーバードーズで空を飛ぶことさえままならず、あの時永遠の愛を誓ったはずのトリニティー(キャリー=アン・モス)ですら、現在ではすっかり別家庭の主婦に収まっていたのだ。
(映画の中で)実際に体験した現実が過去の記憶となっていつしかフィクションとして後世に伝えられていくループ。本作におけるネオ、そして監督のラナ・ウォシャウスキーもその残酷な罠に気づいたのでないだろうか。トーマス・アンダーソンが自分の実体験をゲームとして再現したように、もしもワーナーの望みどおりに本作を原点回帰的作品に仕上げたならば、メタ化したフィクションとしての記憶だけが上書きされでしまうのではないか、と。
エンドロール後のオマケシーンで、フィクションたる映画の死にふれられていたが、人気のYouTube動物映像だって、実はフィクションあっての賜物ではないのだろうか。ザイオンなければマシンシティなし、ネオがなければスミスなし、トリニティーなければネオもなしなのである。それは、監督ラナ・ウォシャウスキーの中にある男性と女性の“共存”を投影した、今回制作から早々と離脱した双子の姉妹(兄弟)リリーに向けたラブコールだったのかもしれないのだ。