「知性を伴う言葉」三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 U-3153さんの映画レビュー(感想・評価)
知性を伴う言葉
実に見応えのある討論であった。
正直、☆など付けれない。
ただ、終幕において制作者が用意した言葉には、価値観が反映されるので納得しなくてもいいと思う。
ドキュメンタリーとしては、大きなお世話と思えてしまう。
現代においての討論が、いかに稚拙であり、知識はあっても知性の欠片もなく、討論ですらないと思えた。
作中、芥氏が「言葉が力を持っていた最後の時代」と述べている。正にそうであったのだろうと思える。
右と左。
正直、よく理解はしていない。
情報としては相反し敵対しているって事くらいだ。
双方の思想が真逆の立場。
相対したら戦争にしかならない状態なのだと思う。
だが、どうだ?
小難しい単語や聞いた事もない単語が飛び交うにも関わらず、双方の主張は驚く程理解できる。
革命を目指した者と、改革を目指した者、なのだろうか。根源は同じで、やり方が違う。
どちらも「今のままではダメ」なのだ。
そんな風に思える。
作中、三島氏に煙草に火をつけてやる芥氏が印象的だった。
ぶん殴ると壇上に上がってきた人物と三島氏の間に立ち塞がってるように見える芥氏が印象的だった。
赤子を連れてきた芥氏、あれは一つの緩衝材としての役割を担わせる為の意図だったのだろうか?
だとするなら、彼はとても聡明な方だと思う。敵陣に単身乗り込んでくる三島氏に、議論の場を提供する為に「赤ちゃん」というツールを用い、場を整えたのだから。正々堂々、迎え撃つ気構えに一切の澱み無しなのだ。
敵意しかない発言に、一切憤る事もなく、場合によっては笑みすら浮かべ、淀む事なく喋る三島氏が印象的だった。それは嘲笑や苦笑ではなく、心底楽しんでるように見えた。今後の日本を担う若者達と、時流の先鋒に立ち議論している栄誉を実感してたのだろうか。
「暴力を否定した事などないと」三島氏は言う。
なぜならば、どういう状態であるにせよ、他者を自己の思うように変革してしまう事は「暴力」と呼ばれるものなのだからと。それ程に根深く広義なのだと聞こえてきていて、それは肉体的な痛覚に訴えるものだけを指す単語ではないと。だから否定など出来るわけがないと。
一般的にイメージする「暴力」と三島氏の「暴力」とは本質的に違うのだ。
しかも、コミュニケーションにおいて、相手を他者として認めるからこそ起こる行動なのだ、と。
勿論、そこには一方向のベクトルだけがあるわけではなく、双方向のベクトルが生じてこそなのだけれど。
だから、彼は、いや、彼らは、議論を交わす相手と認め合い、言葉を交わす。言葉を用い殴り合う。
自らと同じ目線、同じ人間。
生きている人格として相対する。
お互い認め合うからこそ討論も成立するのだ、と。
第三者からの意見として平野氏は「言葉は不可欠なんだ」と説いていた。
解放区の話であったのだけれど、いわゆる個人の内的な思想がどれ程有用で有益であったとしても、言葉によって伝播しなければ認知も共感もされないって事なのだろうか。
芥氏は解放区の事を「原初の形」と言ってたように思う。事物に囚われず人が人として解放される空間であるというような事だったと思う。
その解放区を広げる事が、闘争の目的とは言ってはいなかったように思うけど、目標なり指標ではあったのだろうと思う。その空間は持続しなくても良いのか?と三島氏は問う。
三島氏は三島氏で、その解放されたと意味づけされている空間ではなく、その精神性には同意しているようでもあった。
なにせ、現代とは全く異なる国に思える。
現代は、社会的に平和な状態ではあるのだろう。
だが、それが個人的な平穏に直結してるようには思えない現代ではある。
政治は国民の手を離れてる。
選挙や民主主義など、絵に描いた餅のようだ。
国家の暴力によって、支配されてるのだと思う。
個人は無力で組織は強力だ。
ヒエラルキーは大手を振って君臨している。
多数決の論理に迎合するのは簡単で安全だ。
思考を止めればいい。
そんな事の積み重ねが「無気力」を産むのだろう。
何もやらない内から「何をやっても変わらない」と諦める。誰かの闘争を自分に転嫁する。
権力と体制に押し潰されて、いや、隷属しているのが今の日本人なのだろう。
それでも、表面的には平和だ。
思想…この場合は自身の主張を訴える言葉は無力でも。いや、それこそ主張なんて主張はそもそも無くて、だからこそ言葉に力を込められないのかもしれない。
表層的な美辞麗句に終始する。
「コロナ終息」を掲げる選挙ポスター。
随分と国民はバカにされてるのだなぁと思う。
そんな戯言で釣れると思われてるのだろうな。
敗北を総括するにあたり「敗北が運命であったして、その敗北を経てどう変化していくのか、その先を生きてこそ、それが敗北であったかどうかを総括すべき」というような言葉があった。
ニュアンスは違うのかもしれないけれど。
耳に残り、心に響く。
一応の結末は、真のエンディングではないのだ。
知性を伴う言葉に力があった時代。
おそらく今は理不尽な暴力が蔓延し、それを暴力と思えないように洗脳されてる状態なのだろうと思う。
言葉を交わす。
その単純にして絶大な影響力を忘れてはならない。
「言霊」なんて表現が妥当かどうかはわからないが、投げかける言葉、投げかけられた言葉は共有も共鳴もする事は確かだと思う。
事実、僕らは親やメディアを含む他者から投げかけられた言葉により人格を形成し今に至るのだから。