劇場公開日 2020年3月20日

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「“戦後ニッポン”とプロレスをした男。」三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 ウシダトモユキ(無人島キネマ)さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5“戦後ニッポン”とプロレスをした男。

2020年3月29日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

2020年1月5日、僕はかつて応援していた獣神サンダー・ライガーの引退をきっかけに、およそ20年ぶりで新日本プロレスを見るようになった。時代はずいぶん便利になって「新日本プロレスワールド」というサブスクによって、20年前の懐かしい試合も、直近最新の大会なんかも、いつでもたくさん観ることができる。

僕がツイッタにつぶやくこともプロレスの話題が多くなったけど、それは映画に対するモチベーションが下がったということではなくて、むしろ「映画を観ること・映画の話をすること」を面白くできるようになりたくて“プロレス的な感性”を鍛えようと考えてるところがある。

「映画見」を続けていると、映画の観方や語り方が“格闘技的”になっていく。
知識の豊富さや批評の正確さが競われて、映画作品は勝ち(良作)か負け(駄作)かで評価をされる。

映画見の強者による映画批評が「答え合わせ」のように見聞きされるのも、
鑑賞本数や知識の少ない映画見が過剰に「下から目線」で映画語りをするのも、
好きな映画が批判されると自分の人格を否定されたように思えてしまうのも、
それらは映画の捉え方が“格闘技的”だからなんだと僕は思う。

少し窮屈だ。

しかし「映画の観方感じ方は人それぞれ」という約束の下にされる映画語りには、議論というコミュニケーションの喜びが生まれない。
かといって議論を“格闘技的”にやれば、勝者と敗者と強者と弱者を分けるだけの仕合になってしまう。

一人で完結する趣味として映画を楽しむことはできるけど、他者とのコミュニケーションとして映画を楽しむのは案外難しいんだなと思っていたのが2019年。そこに“プロレス的な感性”が効くのでは?と思い立ったのが2020年ということだ。

“プロレス的”とはどういうことか?

例えば『テラスハウス』が真実のドキュメンタリか?ヤラセのバラエティか?その判断を決めることなく楽しむことができる姿勢のことであり、

例えば自衛隊が軍隊か?合憲か?その判断を決めることなく、災害出動などには感謝できる感性のことであり、

例えば女性が男性に話すネガティブな話題に対して、アドバイスや説教をして問題解決するのではなく、共感をもって傾聴する配慮のことである。

・・・と、僕は思っている。

さて、そんな“プロレス的”な姿勢や感性を配慮しながら、本作『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』を観てみた。

三島由紀夫はプロレスラーだったし、東大全共闘もプロレス団体だったし、だから『1969.5.13@東大駒場キャンパス 伝説の討論会』も、大盛りあがりのプロレス興行だった。

【右翼のカリスマヒーロー三島由紀夫が単身で、極左武闘派である東大全共闘の本拠地に乗り込んで、1vs1000のトークバトル】

である。「面白そう」でないはずがない。

例えるならUインターを率いる高田延彦が単身で、FMWに乗り込んで大仁田厚やミスターポーゴと電流爆破デスマッチをやるようなものだ。

そして確かに面白かった。

芥正彦というむっちゃキャラの立つ悪役レスラーもいたし、討論の終盤には「思想は違えど闘うべき敵は同じではないか?共闘できるのではないか?」というドラマチックなクライマックスもあった。
そこには熱があり、時代の一大事を目撃したというセンセーションがあった。
三島由紀夫は東大全共闘を論破しに行ったのではなく、彼らの主張を全て聴いた上で説得を試みようとしたという、いかにもプロレスらしいヒーロードラマもあった。

果たして勝利したのは、三島か?東大全共闘か?
討論で語る話が正しかったのは、三島由紀夫か?芥正彦か?
そういう“格闘技的”な観方のみでは、楽しみきれない事件だったようにも思う。

討論で語られる思想論のような哲学論のような「インテリ問答」。
暮らしに根付いていない言葉たちには、つまり生活感がなく、だから意味不明だけど、それでもなんとなくカッコ良い。
コブラツイストやフライングボディアタックのように、本当に効く技としてやっているのかどうか?観ててイマイチわからないし、それはおそらく大事な要素ではない。
じゃあ彼らの話す話は妄言やインチキか?といったらそうではない。彼らの熱と本気は真実だからだ。

そういう“プロレス的”な面白がり方が、あの討論を俯瞰で観ることを可能にすると思う。

三島由紀夫はその後、自分の思想に殉じて、事件を起こして腹を切った。
暮らしに根付いていない生活感のない彼の死は、伝説になった。
一人の人間として暮らし、老いるリアルより、三島由紀夫という人生を“物語”として残すドラマを選んだ。

あの事件は「セメントマッチ」ではなく、「三島由紀夫vs戦後ニッポンのプロレス的なパフォーマンス」だったのではないかと、僕は思う。
勝てると思って起こした事件ではないし、負けて無念の自刃ということでもなかったんじゃないか。
しかし強烈なひとつの物語として、後世の人々の心に残した。そういうものだったんじゃないかなと、僕は思うのだ。

その後のニッポンが良きに変わったかといえば、そんな感じは全然しない。ズルやり放題の政治にうんざりさせられるばかりでなく、か弱き庶民の暮らしに先が見えなくなってきた。そんな今、三島由紀夫の唱えた論に、ちょっとクラクラっとしなくもない。そんな危うい面白さもある映画だったと思う。

ウシダトモユキ(無人島キネマ)
カールⅢ世さんのコメント
2020年4月1日

そのとお~り。 楽しませていただきました。

カールⅢ世