劇場公開日 2020年3月20日

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「東大紛争が革命に発展せずに、どうして収束してしまったのか、解った気がした。 前年に安田講堂に居なかった=居残り・残党組み?の”悪あがき連中(点)の中に指導者(線)は残っていなかった。」三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実 YAS!さんの映画レビュー(感想・評価)

0.5東大紛争が革命に発展せずに、どうして収束してしまったのか、解った気がした。 前年に安田講堂に居なかった=居残り・残党組み?の”悪あがき連中(点)の中に指導者(線)は残っていなかった。

2020年3月26日
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鑑賞方法:映画館

50年前の講演に至るまでの経緯を判りやすくドキュメントした映画だが
「すごい討論会が50年前にあった」という前提のもとに編集された何も学べない不毛映画
ドキュメントは最初の筋書きどおり、うまく切り貼りされて、それらしく魅せているが、
会場は一部の登壇者以外は整然とした1000人が興味本位のみで同じ空間に居ただけで、
単なる傍観者に過ぎず、壇上では雄々しくやってはいるが文化祭の特別講演会の質疑応答のようで
全学連達からは共産主義革命思想もマルクス社会主義思想もまるで伝わってこない。

三島由紀夫さんは後輩である学生達には哲学はあっても、思想なき革命にシンボル・旗印が必要な事を教えるが、通じない。
目の前に居る全学連学生が一連の大学闘争とは一線が引かれ、連続していない点である事も「解放区」というキーワードを使って
教えようとした言葉の意味が理解できていなかったようだ。
いくら東大でも、20歳前後の若さはあっても、学生にはしょせん無理な事変なのか?

芥と言う名の演出家学生が赤子を抱いて登場した時は おっ来た! と僕は思った。
なぜなら、あの場に不似合いな赤子を抱いているという事は、
「自分は肉体的な暴力は振るわないし、暴力を受ける事も歓迎しないが
 言論を持って、決闘するぞ! 」という強い意気込みの表れだからだと僕は期待したからだ。
三島由紀夫さんもそう判断したと思う。
しかし、それも期待外れで、彼は単なる哲学好きな演劇少年で
永遠と三島由紀夫さんと哲学的な話をするばかりで両極対立の核心には至らず
耳障りのよい抒情的な言葉を連ねるだけで、
三島由紀夫さんの口元は緩んでいた。
壇上ではみな雄々しくしゃべっているので、それっぽく見えるがみな中身はない。
お陰で三島由紀夫さんのサルトルのエロスからの話を聞けたことは僕的には儲けものだった。

会場の傍観学生は大学授業を聞くようにお行儀よく
たまに数人による罵声が飛んできたりするが、1000人が討論している殺伐とした空間ではなく
みな”お利口”に壇上の話を好奇心的興味だけで傍聴している。
その場で戦っていたのは10余人。
殺気立たない会場では赤子も泣かない。

哲学少年だけ、三島由紀夫さんの諸本を読んでいたようだが
もし本当に意義のある論争がしたいなら、事前に論点整理をしておき
 (この映画で論点と、なりうる議題は「解放区の意義」「反米革命と改革」「天皇という御旗」だろう)
その論点の相異について、論議すべきを
当日いきなり話を始めたので、話がかみ合ってこないのは必然だろう。
論争を企画した中の誰かが事前に気が付いて、少しでも段取りをしていれば、こんな場当たり的な不毛論議にはならなかっただろう。
三島由紀さんは事前に何を話すか、何通りか用意して準備していたようだ。
その辺を後日に誰かに伝えていたと思うのだが、その取材をしてほしかった。

この映画の中に僕がどこにいるのか探しながらも、観ていました。
99%の学生=”白けた傍観者”の中にいるのか?
30年前の僕も、現代の僕もそこにはいない。
2部の終わりに、業を煮やして「殴ってやる!」と会場からヤジを飛ばしながら、登壇してきたベージュのジャンバーを着た青年
彼が僕だと思った。
その後、彼はマイクを持って、話し始めたのだが、新劇青年に邪魔されもしたが
ドキュメントでも尻切れトンボにで編集され、内容がきちんと伝えられなかったのは残念だった。

3部になり、ようやくまともな方向に向かうかと思われたが、出だしのオレンジの服を着た青年の主張の肝心な前半部がカットされており
中身ナシの激論討論ぽい”雰囲気”だけドキュメントされていたのは
今回の映画での最大の失敗部分だ。

三島由紀夫さんは「安田講堂で、天皇と言ってくれれば、駆け付けた!」と言った意味を全学連側では理解できていない。
始めの頃にも三島由紀夫さんは前振りをしていたが、学生たちはスルー
三島由紀夫さんは東大生達が「天皇」と言う言葉の意味を理解していない事に気がついて、「言霊」という言葉を挟んでみたが
登壇している学生はにはこの意味も通じず、三島由紀夫さんが望んだものは何ひとつ討論会では得られなかった。
自分たちが何者で、何を目指すのかも理解できていない20歳の学生達に40男の主張を理解するには荷が重かったようだ。
三島さんには全共闘が見えていたが、全共闘から三島由紀夫さんがまったく見えていなかったのが歪めない。

映画の中では 白兵戦のような緊迫した論戦が両極の間で”さも”有ったように映画が編集されているが
全学連側は面白そうだから呼んで話をしただけで
記念にはなっただろが、何も残らず
いい思い出を作れただけだった。
三島由紀夫さんはOBだけあって、全学連2軍の白け具合を見て、革命を断念したであろう。

映画なので、映画的な部分を書くが
劇中「TBSのライトが明るすぎた!」という証言もあったが
冒頭の司会者も三島由紀夫さんも 絶えず正面ではなく、会場の斜め右を向いて話をしていたが、
カメラの設置場所のせいで、会場の傍観者にはより舞台との隔たりを作ってしまったのではないかと思った。
また、ライトに不満を持った週刊誌カメラマンは三島由紀夫さんの真後ろを何度も行き来して
撮影の邪魔をわざとくり返していた子供じみた仕返しには思わず笑えてしまった。
そんな戦いもドキュメントの面白いところだ。
そして最後に別セクトの行く末である「あさま山荘事件」等で強引に結ぶ
この映画は何を言いたかったのか?

他大学での、三島由紀夫さんの講演を内容と雰囲気を観比べてみたいと思った。

*最後に三島由紀夫さんの「天皇」とは個人・人物や役職を示すのではなく
 日本そのもの(伝統・文化・歴史)の象徴なのです。
 そして医学生の居ない全学連居残り2軍が行っていたのは革命ではなく、紛争と不満の薄っぺらい爆発だけでした。

*50年前のフィルムは白黒なので、僕が服の色を言っているのはあくまで、イメージです。

YAS!
talismanさんのコメント
2020年8月17日

はじめまして。YAS!さんのレビュー、細部にいたるまで私は同意します。本当に学生みんな二軍です。両者がまるで噛み合っていないこと、三島の述べる内容をほぼ全ての学生がわかってないことが、ひたすら伝わってきました。その二軍が社会人になって、ほら、何も変えていないじゃないと私は思っています。

talisman
YAS!さんのコメント
2020年3月31日

”駒場900講堂討論会”の生き証人たちのコメントが多々 映画の中に組み入れられていたが
映画「私は貝になりたい」の件と同じだと思った。

「私は貝になりたい」公開時、福澤克雄監督は師匠の黒沢監督に
「橋本よ、これじゃあ 貝になれないんじゃないか?」と言われたのを生涯きにし続け
50年後に、自分でもう1度同じ映画をセルフリメイクしたが、
リメイクしても、黒沢監督の言われた意味が通じていなかった。

話は戻すが
この東大での討論会に居た男たちは月日が経っても
相変わらず、解っていない2軍の男たちだった。

この映画はそんな男たちに気を使って作られた愚作映画だった。

YAS!