劇場公開日 2020年10月9日

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「わたしたちは、個人レベルでみればお金がなければ死んでしまうが、生物レベルでみれば次世代がいなければ滅亡してしまう」82年生まれ、キム・ジヨン えすけんさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5わたしたちは、個人レベルでみればお金がなければ死んでしまうが、生物レベルでみれば次世代がいなければ滅亡してしまう

2025年1月13日
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鑑賞方法:VOD

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知的

難しい

結婚・出産を機に仕事を辞め、育児と家事に追われるジヨン。常に誰かの母であり妻である彼女は、時に閉じ込められているような感覚に陥ることがあった。そんな彼女を夫のデヒョンは心配するが、本人は「ちょっと疲れているだけ」と深刻には受け止めない。しかしデヒョンの悩みは深刻だった。妻は、最近まるで他人が乗り移ったような言動をとるのだ(公式サイトより)。

個々人のもつ「家族観」や「男女観」は、一見、わたしたちの日々の営みの積み重ねでできあがっているように見えるが、実はそうではなく、例えば、「国家の統治」や「資本主義」のような、ものすごく強大な枠組みへの最適化を目指して設えられているという指摘は、韓国で大ベストセラーとなり、この映画もたびたび本文中で触れられる「主婦である私がマルクスの『資本論』を読んだら」という書籍に登場する。

例えば本作でジヨンが「わたしは(夫の)デヒョンほど稼げない。働いたとしても、保育園代やシッター代にすらならないかもしれない」と呟く場面がある。日本でもおなじみ、「OECDジェンダーギャップ指数」によると、男女間の賃金格差は、日本の22.1%(女性は男性の77.9%しか賃金をもらえていない)に対して、韓国は31.1%(同68.9%)である(全体順位は146カ国中、日本125位、韓国105位)。

前出書籍はこのことを、「男性が家族賃金を稼いでくる労働者となり、女性がそのような男性労働者を無償で再生産する役割をつとめてこそ、資本が安い労働力で大量の利益創出をなしとげることができるからだ。性別分業が崩壊すれば、企業家は無料で提供されていた労働者の再生産に別途コストをかけなければならない。そうなると、利幅が減り、今のような利権を享受できなくなる」と指摘する。

わたしたちは、個人レベルでみればお金がなければ死んでしまうが、生物レベルでみれば次世代がいなければ滅亡してしまう。

主人公であるジヨンに祖母、母、義母が憑依するという設定は、次世代を育てる「仕事」をしている間、お金を稼ぐ「仕事」ができなくなる二律背反を全て「女性」「母」「妻」という個人に押し付けてきたという長い時間軸を示すメタファーであり、どの時代の価値観にも染まり得る「透明感」を持ちながら、どの時代でも前を観て進み得る強い「芯」も持つ、主演のチョン・ユミに相応しい役どころである。韓国のアカデミー賞である「大鐘賞映画祭」で、世界的大ヒットとなった「パラサイト 半地下の家族」のチョ・ヨジョンを抑えて主演女優賞を獲得したのも頷ける。

個人的には夫のジヒョンが「わたしが追い詰めてしまった」と嘆く場面が身につまされる。ジヒョンもジヨンも、義母も母も祖母も、カフェで悪態をつく3人組の男女でさえ、悪人は誰もいない。大きな枠組みの要請に従っただけなのである。

22世紀は、「個人主義」「民主主義」「個人主義」「民族主義」のように、生きていくための「仕事」と、生命としての「仕事」が、対立・押し付けではなく、両立・融合していく新たな「主義」の発明が命題になるのかもしれない。と、なぜか謎に壮大な結論となり自分でも驚くが、ジヨンやジヒョンのように誠実な市井の民の自助努力だけでどうにかすべきタームはとうに過ぎていると感じさせてくれる作品だった。

えすけん