「モンスターパニックのルール」クワイエット・プレイス 破られた沈黙 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)
モンスターパニックのルール
前作クワイエット・プレイス(2018)は手放しの絶賛で批評家に受け容れられました。
じぶんはしばしば映画の評価をIMDBやrottentomatoesでかくにんします。
クワイエット・プレイスのトマトメーター(批評家評)は96%でモンスターパニック映画として異例の高さだっただけでなく、数百人もの批評家間でネガティブ評がほとんどないほどの熱賛でした。
たしかにすぐれたホラー映画であり絶賛に異論はありませんが、批評家たちの異様な高い評価が気になりました。
ホラー映画、パニック映画などのジャンルでは、ここまで圧倒的多数の(批評家の)高評を得ることは稀だからです。
IMDBやrottentomatoesの評価は、おおむね腑に落ちるものです。ただ、自分の予測と微妙な違いがあったばあいに、それが何故なのかを、わたしは知りたくなります。
繰り返しますがクワイエット・プレイスはいい映画でした。だけど批評家評が異様なほど高かったのです。その理由を知りたいと思ったのでした。
調べた結果、なにか核心めいたことが解ったわけではありません。
ただいくつか理由(と思えること)を見つけたので、その考察を書いておきます。
まず個人的には驚いたことですが──多くの海外の批評家たちがクワイエット・プレイスのアイデアを絶対的に独創的とはみなしていませんでした。
クワイエット・プレイスは、そもそも音にはんのうするモンスターあってこそのものですが、多くの批評家がそれをさほど感心していませんでした。
ただし、ほとんどの批評家がアイデアを効果的に運用していることを指摘していました。つまり音にはんのうするモンスターを造形し、それに合わせた世界観を、徹底的に造りあげていたことを称讃していました。
世界を徹底的につくる──とは、まずクラシンスキーとブラントはじっさいの夫婦です。おそらくふたりのリアルな結束がクワイエット・プレイスの成功要因のひとつだと思います。
娘役Millicent Simmondsも「世界観の徹底」のひとりだと思います。彼女は現実に聴覚障害者です。
『生後12か月になる前に、シモンズは薬物の過剰摂取のために聴力を失いました。』
(Millicent Simmondsのウィキ(英語版)より)
『テレビや映画で耳が聞こえない人を見たことがないまま育った私は女優になることを考えたことはありませんでした。私はそれが可能だとは思いませんでした。』
(本人の述懐)
コーダあいのうた(2021)に出演した聴覚障害者のマーリー・マトリンはシアン・ヘダー監督のオファーにたいして、相手役となる夫をじっさいのろう役者から選ばなければわたしは出演しないと突っぱねたそうです。その要求が飲まれTroy Kotsurがえらばれ(男性の)ろう者として初めてオスカー候補になった──のだそうです。
これはたんじゅんな真理──ほんとのろうが演じなきゃリアルじゃない、ということだと思います。
人物のリアルに加え世界のリアルがありました。かれらがなぜそうやって生きているのかを映像で語っていたからです。
『日本の映画監督清水崇は、冒頭10分で引き込まれたと述べ、本作がホラー描写だけでなく家族の関係性もリアルに描かれていると評価した。また、彼はエヴリン役のエミリー・ブラントとリーガン役のミリセント・シモンズの演技も高く評価したほか、世界設定を細かく言葉で説明せず劇中の行動で観客に悟らせている点も絶賛した。』
(ウィキペディア、クワイエット・プレイスより)
『世界設定を細かく言葉で説明せずに劇中の行動で観客に悟らせている点』とありますが、それって映像作品の基本的な使命ではないでしょうか。また、解っているなら清水監督もやったらどうか──とも思いましたが、いずれにしても、世界を徹底的に造りあげたからこそ──『世界設定を細かく言葉で説明せずに劇中の行動で観客に悟らせ』ることができたのでしょう。
クワイエット・プレイスの高評価は、それら(夫婦・聾・世界)のリアリティがもたらしたものだと思います。
高い評価をうけたクワイエットプレイスおよびこのパート2を見て、モンスターパニック映画三つの重要課題を発見したので、それを書いておきます。(発見つっても、たんに素人の自己満にすぎません。)
①それが蔓延または恒常化している人間の習慣をていねいに描くこと。
その(モンスターまたはゾンビの)出現が既に日常となって久しい人間の生活習慣を克明に描く──。これがいちばん大事だと思います。
だめなパニック映画は、モンスターが現れた→びっくり→たいへんだ→いろいろわかんないぞ──を描いてしまいます。
が、観衆はモンスターが現れてびっくりしたり怖がったり、どんなモンスターなのか説明している描写に冗長を感じるのです。
ロメロがナイトオブ~をつくったのは1968年です。クリエイターに人並みの羞恥心があるなら君と世界が終わる日にのようなのはつくるべきではありません。
現れたから(→びっくり→たいへんだ→)いろいろわかんない──まで、ぜんぶ不要であり、現れて数年経っている、慣れている、あるていど退屈な作業感、(新種以外)ぜんぶ知っている──そんな人間側を描くことで、わくわくする導入を達成できます。
②対処措置を三段階くらい用意すること。
モンスターに攻められたときの対処方法(武器や仕掛けなど)を、雑魚と中堅とラスボスで三~五段階に用意しておきます。
雑魚をやっつけるのは習慣・恒常化しているゆえ、だれでもサクッと処置できます。中堅モンスターは主人公を脇役がたすけて「あぶなかったぞいまの」風のヒヤリ感を醸します。ラスボスは「しかたないあれをつかおう」「え、だってあれは・・・」感でやきもきさせます。その上にさらに隠しボスや隠し武器も設定してもいいでしょう。
人間側の対策が、敵の強さに合わせて段階的になっていることで、盛り上がりを演出できるとともに、モンスターが日常化しているディストピアにリアリティを付与します。=すなわち①にも貢献します。
③人道と効率のジレンマを設定すること。
誰か(大切な仲間や家族)を守ることと敵をたおすことの両立ができない状況をつくります。
序~中盤では、誰かを救出するために、あるいは過失のために、やられそうになる、終局では、主役格の犠牲をもって、ラスボスを倒す──のような対価の設定が躍動につながります。
ただしエモーショナルにしてはだめ。感傷をさらりとやらないと、ただの日本映画になってしまうでしょう。
④今までになかったモンスターを創造する。
①②③を使ってモンスターパニック映画をつくるのは④を創造してから。なのでいちばん大事かもしれませんが、おそらくクワイエットプレイスを見た人の何人かは、音にはんのうするモンスターに絶対的な独創性(唯一無二のキャラクタライズ)を感じなかったと思います。
なんかどっかで見たぞ的な印象もあったに違いありません。ただし、音にはんのうするモンスターを徹底的に突き詰めた映画はクワイエットプレイスしかありません。それは正にコロンブスの卵です。
おそらくモンスターのアイデアは完全に独創的である──ことよりは、実現可能な限りで徹底的に突き詰めることができるもの──であることのほうが大事なのだ、と思った次第です。
さらに次回への含みややり残しを残せばなおいいでしょう。
クワイエットプレイスおよびパート2はそれらの課題の手本のような映画だと思った──という話。因みに個人的には初作のほうがいいです。