「日本の教育体制がブラック企業を陰で支え続けている」アリ地獄天国 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
日本の教育体制がブラック企業を陰で支え続けている
重くて苦しい作品である。ブラック企業で働いたことがある人にはとてもきつい映画だ。そこで働いた時間が無為の時間、まったくの無駄な時間だった気がするからである。
どんな仕事でも自分なりの達成感や、客に喜ばれる満足感はある。しかしブラック企業においてはそれは一過性のものだ。何を達成しても誰も褒めてくれない。一度は喜んでくれた客も、次にミスをすればクレームを出してくる。意に沿わない仕事や日々のハラスメントは精神を痛めつけ、体力の限界を超えるほどの長時間労働は身体を痛めつける。そこまでして働いて得たのは給料だけという徒労感。
ブラック企業がブラック企業たる所以は長時間労働やサービス残業にあるのではない。ブラック企業の本質は一元論にある。経営者の成功体験があって、自分はこうやって成功した。どうしてお前たちは同じように出来ないのかと従業員に自分のやり方を強要する一元論である。多様性が組織や共同体を安定させることを理解できず、個性を否定して軍隊のような組織を作ろうとする。エスカレートした経営者は従業員に丸刈りにしろ、七三にしろ、シニヨンにしろなどと、髪型さえも強制する。軍隊では兵士ひとりひとりの個性など重視されない。どれだけ敵を殺す能力だけが求められる。死んだら代わりの兵士を派遣する。経営者の自己実現のために使い捨てにされる従業員はまるで兵士のような消耗品だ。
労働は時間と行動をスポイルされることと引き換えに対価を得ることだ。使用者に仕える限り、完全な自由はあり得ない。しかし労働者が企業で働くのは、収入が安定し、自分の才覚で稼がなくていいという利点がある。それなりの承認欲求も満たされるし、労働時間が過ぎれば自由に行動できる。たとえ長時間労働が続いても、精神的な強要がなく時間外手当が正しく支払われるなら、それはブラック企業ではない。
ブラック企業では時間と行動に加えて、人格もスポイルされる。口ごたえは許されず、何かにつけて罰金といって給与が減らされる。耐え忍んだ果ての薄給では、労働そのものが浮かばれない。本作品の引越社は、まさにブラック企業の典型だ。
人間が他人と自分を比較して自分が優れていることに満足するという性質を脱却しない限り、差別もいじめも格差もなくならない。差別や格差は悪を育む温床だから、悪もなくならない。当然ながらブラック企業もなくならない。ブラック企業を批判する人も、いつの間にかブラック企業の側に立っていることもままある。誰の頭の中にも差別や格差が存在するからだ。
しょうがないとして諦めるか、それとも戦うかは個人によって異なるだろう。本作品の西村さん(仮名)は戦うことを選んだ。苦しい戦いだが、応援してくれる組織もある。無条件で味方してくれる妻も父親もいる。それでも大変な精神力だ。
自分がハラスメントの対象になるまでは、西村さんも会社の言うことに唯々諾々と従っていた。長時間労働やサービス残業も、それに罰金も、そういうものだと思っていた。これは西村さんだけでなく、世の中の企業で働く多くの人々がそうだと思う。人権の意識がないのだ。そういう教育を受けていない。憲法の条文も知らない。
ブラック企業は悪どい経営者だけでは存在し得ない。おとなしく言うことを聞いて従う羊のような労働者の集団がいるから存在できるのだ。個人の権利を教えない、憲法も教えない日本の教育に大きな問題があることは明らかで、逆に言えば、個を軽視して組織を絶対視する全体主義の日本の教育体制がブラック企業を陰で支え続けているのである。