「シリーズでは最もよくまとまっている作品」るろうに剣心 最終章 The Beginning 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
シリーズでは最もよくまとまっている作品
菊は死者に捧げる花だが、江戸末期からそんな風習があったのかどうかは疑問が残る。しかし剣心が家に火を放つためにはどうしても菊の花が必要だった。つまり雪代巴はもう死んでいますよと観客に知らしめるためだ。頷けはするものの、雪代巴が死ぬシーンが綺麗すぎて本当に死んだのか解りにくかったのが原因であるのなら、明らかに死んだと解るように酷たらしく死んでいれば、菊の花は必要がなかった。加えて前作で新田真剣佑が演じた縁(えにし)の怒りももっと説得力があった筈だ。有村架純は既にそういう演出に応えられる女優に成長していると思う。
名前を知ると情が移る。過去の知人で名前を忘れたら、その人には情が移っていなかったということだ。ペットに対しては人間以上に情が移りやすいから、飼っていたペットの名前を忘れる人は少ないと思う。
主人公緋村剣心が究極のテロリストたり得ない所以は、名前を覚えた他人に情を移すこと、または情を移した相手を忘れられないことだ。相手が剣を持っていれば斬る対象、持っていなければ斬らない対象と甘っちょろいことを言う。自分が殺されるかもしれないときと、殺すと決めた相手を前にしたときには問答無用で斬るのがテロリストの本質だろう。テロリストは誰にも情を移さない。孤独に耐えられなければテロリストでいられなくなる。
高橋一生が演じた桂小五郎によると、主人公緋村剣心はどれだけ人を斬っても少しも心が汚れないらしい。心が汚れないことを別の言い方をすれば、慣れないということだ。習うより慣れろという諺がある。物事は何度も繰り返すことで意識よりも無意識に習熟させるのがいいという意味で、自転車の練習をするようなものである。慣れれば手順を意識せずとも乗れるようになる。仕事に慣れて、状況や条件が多少違っていても無意識に対応できるようになれば、プロフェッショナルと言える。慣れなければいつまでも初心者だ。
人類の歴史は人殺しの歴史である。権力闘争はほぼ殺人であった。または戦争であった。人を殺しても何も変わらないと根拠のない説を唱える人がいるが、人を殺したら様々なことが変わる。殺された人が持っていた影響力が大きければ大きいほど、沢山のことが大きく変わるし、殺された人数が多ければ多いほど、殺人そのものの影響は大きい。
歴史上の人物がもし殺されていなかったらと考えることは無意味ではない。殺されずに影響力を発揮し続けた場合の状況を否定することがテロリストの目的だと解るからだ。しかしテロリストが期待した世の中にならないこともままある。時代というものは多くの人々のそれぞれの思惑によって常にうごめいている。要人や有名人の死は様々な影響を与えるが、その後にどういう方向に向かうのは予測できない。
桂小五郎の命によって沢山の人を殺してきた緋村剣心だが、自分の殺人によって世の中がどのように変わったのかについては何も解っていない。最後には他人の名前を覚えて情が移る。そして流される。奇しくも夏目漱石が「草枕」の中で「情に棹させば流される」と看破したとおりだ。最後までプロフェッショナルなテロリストになれなかった剣心が流浪したのは、場所ではなくて彼の心の中であった。「るろうに剣心」のシリーズでは最もよくまとまっている作品だと思う。