「「何も逃さないように、撮り続けたい」」娘は戦場で生まれた Imperatorさんの映画レビュー(感想・評価)
「何も逃さないように、撮り続けたい」
“ひとつの究極”のドキュメンタリーのかたち、と言って良いのではないか。
一見すると、ニュースやドキュメンタリーで何度も見かけるシリア空爆の映像である。
しかし、かなり独特で、今まで見たことも感じたこともなかった印象だ。
反体制派による「反アサド、反ロシア」のプロパガンダと見ることもできよう。
実際、主人公ワアドは「イスラム過激派の方がマシ」と語るのだ。だが両者の間で、何があったのか語られることはない。
“過激派の掃討”が加わることで、国際世論が分裂し、見捨てられた民間人の犠牲者が増加するという構図が見て取れる。
(※追記)とはいえ、後で聞いた話によると、アレッポにおいては、イスラム過激派の活動がもたらした影響は、ほとんどないということである。
しかし、政治的な見方は避けたい。少なくとも、貴重な“歴史の証人”たる資格をもった作品だ。
映画は、娘のサナに語りかけるかのような、ナレーション形式で進んでいく。
2016年7月、政府軍がアレッポの反体制派支配地域を“包囲”した時から、同年12月の“降伏”と“退去”に至るまでの、時系列に沿った映像が中心だ。
2012年~2015年の過去の映像も、折に触れて差し挟まれるので、ワアドが当初からジャーナリズムを意識していたことが分かる。
しかし、これほどまで、自分自身が“主人公”になるとは、予想しなかっただろう。
当初は、「勝利を疑わなかった」し、「“自由”のためなら死ねる」と意気盛んであった。
仲間を失えば、「何があっても続ける」という意志を固める。「根を下ろす覚悟」で、家も購入する。
しかし包囲後は、病院が次々と破壊され、水道などのインフラも遮断される。
食料にも事欠き、“降伏やむなし”となるまでの、一連の状況が記録されている。
このドキュメンタリーを独特なものにしているのは何だろう?
主として、3つあると思う。
まず、これまでの作品は、被害映像を“探して”撮っているところがある。しかし、この作品では、わざわざ出かけて収集する必要は無い。自らの本拠地である、自宅や病院が爆弾の標的になっており、かつ、病院には次から次へと犠牲者が運び込まれてくるのだ。究極の“臨場感”である。
2つめは、包囲前から降伏にいたる一連の流れが、“切れ目なく”取材されているという点だ。この持続感は、外国のジャーナリストの戦場への潜入取材では不可能なものだろう。
3つめとして、極限状況下の“家族愛”の物語が、巧まず自然に、映像に“ビルトイン”されていることだ。人々の揺れ動く感情も、克明に映し出される。「作品 = 自分たちの物語」であり、“取材”ではないのだ。
つまり、苦労して取材対象を探し歩き、時間をかけて信頼関係を築いて作っていくという、通常のドキュメンタリーとは真逆に位置するタイプだ。
安直な“自撮り”であって、“ドキュメンタリー”ではない、という意見もあるだろう。
しかし、質・量ともに充実し、オンリーワンの高みに達している。
映画「アレッポ 最後の男たち」でさえ比較にならない、“破格”のドキュメンタリーだ。