劇場公開日 2021年8月20日

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「共感性羞恥耐性を鍛える」子供はわかってあげない 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

1.0共感性羞恥耐性を鍛える

2022年7月31日
PCから投稿

さいきん共感性羞恥心という言葉をよく見かける。

ネットには、
『共感性羞恥とは、他人が恥をかいたり失敗したりする姿を見て、自分まで恥ずかしくなること。』
──と説明されている。

誰にでもある感覚だが、それを感じすぎる場合、HSP(Highly Sensitive Person)が疑われる──らしい。

HSP(Highly Sensitive Person)は「高感度な人」と訳されるが、臨床的にはプラス方向の意味はなく、言わば「ちょっとしたことが過負荷になってしまう打たれ弱い人」と俗解できる。

昔はなかったが、現代人は、さまざまな精神疾患をじぶんに当て嵌めることができるようになった。
わたしもそれにあやかって、じぶんの失敗した人生を“ビョーキ”のせいにしようと画策しているところだ。

それはさておき、かつては共感性羞恥心という言葉がなかった。
とは言うものの、はて、なんと言っていただろう。

はずかしい、いたたまれない、きもちわるい、きまずい、ぎこちない、ぞわぞわする・・・。英語だったらAwkwardかもしれない。

完全に合致する言葉はたぶんなかった。
これだけ感じる感情を言い表す言葉が昔はなかったことが驚きだ。

強いor鈍いゆえに共感性羞恥心を感じないひともいるであろう。そんな方に共感性羞恥心がどんなものか体感できる絶好のサンプルがある。「スカイピース 明日があるさ」で検索すると突起で大根をおろせるほど鳥肌立つこと請け合いだ。

言うまでもなく日本の映画/ドラマも共感性羞恥心の宝庫。
わたしたちが日本の映画/ドラマが嫌いな理由のひとつでもある。
面白くないうえに共感性羞恥心をいじられたら、たまったものではない。

とりわけ海外映画/ドラマを好む人が、たまに和製映画/ドラマを見たときに感じる共感性羞恥心は、はなはだしい。

作り手が撮影中のテイクに共感性羞恥心を感じないのが不思議でならない。
どんだけ共感性羞恥心耐性の高い人たちの集まりなんだろうか。
それとも(共感性羞恥心を)狙ってつくっているのだろうか?

日本映画/ドラマの品質というものは、われわれ素人にとって、謎のつきないミステリーである。

──

これは原作マンガを読んでいる。

原作は軽妙な夏物語になっている。
青春と夏と海なのに情熱的ではなく、積極的なコメディでもなく、ひとつ大人へちかづく少女を、ふわりとしたペーソスで描いていた。

問題は情熱的ではなくコメディでもない、少女の成長物語をふわりとしたペーソスで描くなんてことが日本映画にできるのか──という話。

映画は、作中アニメ「魔法左官少女バッファローKOTEKO」の一場面からはじまる。
原作ではそのアニメ及びアニメ内キャラクタをあっさりと扱っているのに対し、映画では冒頭から振り回してくる。しっかり作り込まれ、擬人化されたモルタルやコンクリやセメントが面白いことしてるでしょの承認欲をギラギラとみなぎらせ、アニメの熱狂的ファンらしい上白石萌歌と古舘寛治が展開に涙を流しながらダンスをする。・・・。

押してはくる。が、日本映画は引いてほしいときにぜったいに引いてくれない。

スカイピースの明日があるさに共感性羞恥心を感じるのは音痴だからでも低レベルの替え歌だからでもなく彼らがスベっていることに無頓着だからだ。
共感性羞恥心とは穴があったら入りたくなるような恥ずかしいことをしながらオフィシャルの体をしている“こと”や“モノ”のことだ。

(たとえば)商業施設で1,000人目の来場者にプライズをする場合、店はぜったいにそれに相応しい家族連れを選ぶ。凶器を隠し持ったようなチー牛を選ぶことはぜったいにない。
共感性羞恥心とは凶器を隠し持ったようなチー牛が商業施設の1,000人目の来場者としてプライズと写真撮影におさまるようなシチュエーションのことだ。
あるいは強面でまじめな一般庶民の老人が、外国人の大観衆を相手に、必死でダンディ板野の真似をする──というようなシチュエーションのことだ。
そういう、あきらかに常軌を逸する事態にたいして、共感性羞恥心を感じない人はたぶんなにかが抜け落ちている。
わたしたちはじぶんが持っている外観などの属性から、大幅に外れてしまうことをぜったいにしない。

『滑稽な外形を持った男は、まちがって自分が悲劇的に見えることを賢明に避ける術を知っている。もし悲劇的に見えたら、人はもはや自分に対して安心して接することがなくなることを知っているからだ。自分をみじめに見せないことは、何より他人の魂のために重要だ。』
(三島由紀夫作「金閣寺」より)

一般的に人は、人とのあいだを変な空気にしない。

原作にはどのキャラクタ間にもAwkwardがない。必要以上に気を遣ったり、言いよどんだり、つっかえたりして関係性に苦しさを感じることがない。
とりわけ主役のふたり朔田(上白石萌歌)は独立系(徒党を組まないタイプ)で楽天家、門司(細田佳央太)も独立系で超然型だった。

が、映画ではさいしょからずっとぎくしゃくする。映画の朔田と門司は、まるでお見合い中の処女と童貞のようだ。すなわち冒頭のアニメからずっと共感性羞恥心になやまされる。

実父(豊川悦司)と朔田が初対面できまづく押し黙るシーンも原作にはない。海パンで追いかけたり弾まない会話で食事したりむりやり三木聡風のオフビートをやったり映画はむしろ積極的に共感性羞恥心へ導いている。

しかし、なぜそんなことをするのだろう。まったくわからない。感覚のずれを飲み込むことができない。
いやわたしの主観なんぞはどうでもいいが、ふわりとしたペーソスをめざした原作者はこの映画の甲冑を着こんだようなぎくしゃくのキャラクタと空気感を見てどう思ったのだろうか。

ところで、言うまでもないが、これは重篤なHSPをわずらっているわたしの偏向評であって巷間では本作は概して好評を得ている。上白石萌歌も豊川悦司も熱演しているし、夏の気配と発色がいい。
ただじぶんはHSP(感受性過多)なので余計なこと(共感性羞恥心)を感じてしまった。見ていてずっとはずかしかった。疲れた。

PS:現代病ってとりあえず酷評の免罪符になるよね。

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津次郎