ミッドナイトスワンのレビュー・感想・評価
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昭和の価値観
トランスジェンダーの描き方にバリバリの偏見がある気がして、観賞後、嫌な気持ちになった。性転換手術は制度上の課題は山積みであるものの、技術としては進歩していて、映画のような悲惨な状態になることは稀である。
このような描き方をすることで、LGBT問題=怖いもの、暗いもの、関わったらやばそうなもの…という意識を無意識に植え付けることにならないだろうか。
また、凪沙の心の部分にフォーカスした描写が少ないため、どんな人生を歩んできたのか、どう考える人間なのかが終始わからず、結局「トランスジェンダーであること」以上の情報が得られない気がした。
監督自体、トランスジェンダーに対する偏見があり、「そういう人達」というくくりで見ているから、凪沙の人間性に踏み込んだ描写ができなかったのではないのかとさえ感じた。
しかしこの映画がこれだけ評価されているのを見ると、今の日本ではこの位が限界なのかなと思った。
悲劇ポルノ
ミッドナイトスワンはその年一番楽しみにしていた映画でした。だからでしょうか?終わった瞬間凄くガッカリした感覚が今でも覚えています。
先に私はトランズジェンダーの人たちの苦労を語れる立場ではありません。でも凪沙の死はなんだったんだろうと思ってしまうのです。先に疑問に思ったのは「性転換手術で亡くなる可能性があるのか?」でした。実際調べたところ性転換手術で亡くなるケースが凄く稀だそうです。フェイクションだからと言ってこのような現実ではあまり起こらない、ストーリー上ただ泣かせたいだけの理由でこのような悲劇を描いていいのか?そう思うとどうしても楽しめない自分がいました。
そしてもう一つは一果の友人の自殺。あのシーンでは単純に「何故?」と思いました。シーン自体は凄く美しく、二人の少女のシンクロしたダンスは一生見続けたいとも思いました。それなのに突然飛び降りるなんて…自殺行為を美しいものに見せるのも嫌だなとも思いましたし、何故彼女が死ななければいけなかったのかがわからなかった。それに一果の友人の死へのリアクションも殆どなかったのも気がかりでした。
他に、個人的に必要と思わない派手なネオンのライトや(何故凪沙の部屋でもこんなに派手なライトを使ったのかがわからない)、変なカット(凪沙が一果に対して生きる事への不満を喚いた後に一果が外にダンスの練習しているシーンへとカット)、色々あります…
役者さんみんなの演技は素敵でした。でも、絶対にまた見たくない作品です。それでもこれほどリアクションが出ると言うことは、なにかこの作品にあるんだと思います。でも私からすると悲劇ポルノとしか思いませんでした。
意味不明な台本と演出の映画
ある程度は期待して鑑賞したが
本当に意味の分からない映画だった。
良かった点もある。
①カラーグレーディングが、すごく現代映画風で上手く
映像美と呼べる仕上がりになっている
②役者の演技、この演出はいいと感じた。
監督を信じて役者が全力を出している
いい現場なんだろうなとは思う。
しかし、出来上がりがコレでは、役者が可哀想に思える。
台本というか演出が意味不明すぎる。
描かないといけないシーンが描かれず
いらないシーンだけがカサ増しされている。
特にいらないと思ったのは「友人のレズキスと自殺」。
こんな無駄死にがあるだろうか。
こんな無駄なレズシーンは許されるのだろうか?
友人は、勝手に監督に殺され、エモーショナルも生むことなく
ただただ、死んだ。その死によってヒロインの成長にも繋がっていない
映画史上に残る無駄死に思える。
そして、爺の拍手。
あれは、なんだ? 背景に無駄に映り込んだ主張のある爺を認識した時点で
頼むから、何もしゃべらないでくれ!絡んでくるな!と思っていたが
拍手&セリフの無駄シーン。
「白鳥は朝まで なんたらかんたら」これも後に生きてない。
うっとうしいだけ。
あと、フィリピン散策もいらない。
そして、全員のキャラが安定しない。
シーンに合わせて、キャラクターを作り変えているのかという如く
性格がちぐはぐだった。(草なぎさんのみ安定してると見てもいいが。)
監督のこうなったら良いなぁ、こうしたいなぁ
こんな事言わせたいなぁ
じゃあ、こーしよ。
みたいな都合が透けてて何もエモーションを生まない。
誰一人一貫性のない人物描写で
ギャグにしかなっていない。
という観点で、ギャグ・コメディ映画としてはよくできている。
部屋に唯一ある漫画が「らんま1/2」「客がテンプレートのように失礼してくる」
「少女の変化が、映像では表現されず友人のセリフのみで語られる、そしてレズキス」
おふざけですよね?
泣けはしないけど、笑えました。
期待するほど…
コロナで劇場には観に行けず。それは作品には謝りたい。
本来なら必ず劇場に観に行くが、今は命最優先。
さて、やっと話題になった本作をVODだが観ることができた。残念ながら思った程ではない。
盛り込みすぎで、何を言いたいのか全く分からない上、心の流れがブツ切りで人物が生きていない。せめて主人公が誰なのかでも分かればだが、これでは誰が主人公なのか不明。
そもそも人物達の心の流れとなる「切っ掛け」が何一つないで話だけが流れるので理解に苦しむところが多い。
なぎさは何故いちかを受け入れ始めたのか?
何故いちかはバレーを始めたいと思ったのか?
友人は何故自殺しようと思ったのか?
何故なぎさは○○○を切ろうと思ったのか?
何故いちかは憎む母親を簡単に受け入れたのか?
などなど、挙げたらキリがない。
それに誰の心の流れを追うのかも不明なままなので、いちかに焦点を当てれば良いのか、なぎさに焦点を当てれば良いのか不明。
両者に視点を合わせるとしてもどちらも心の流れが切っ掛けもなくブツ切りなので、流れが追えない。その変化を追いながら共感するのに、それが無いから共感できない。
言いたいことは何となく分からないでもないが、これではただ単に昨今のLGBTQ+を出しときゃいいだろう程度にしか思えない。
良いところと言えば、まあ希望は多少有るかなくらいだと感じます。
劇場で観られて、良かったです
トランスジェンダー、その苦しみ。
心身の性別が合致して、異性に恋愛感情を抱く私には、一生かかっても分からない。
ホルモン注射の費用負担、副作用のリスク、お店に来るお客さんですら持っている、世間からの容赦ない偏見。
従姉妹からのバケモノという言葉、お母さんから病気だと言われる辛さ、その全てが悲しかった。
被虐待児であること、その苦しみ。
自分で勝手に産んでおいて、あんたのためとか、あんたのせいと言っては当たられ、叩かれ、清潔な部屋も、栄養ある食事も、愛情も与えられない、声も、自分勝手にしか掛けてもらえない、その悲しみと、結果死んだような表情で、挨拶すらしない一果が、哀れだった。
でも2人は出会い、支え合うようになり、いつの間にか母娘のようになっていく。
しかしかつて、映画「彼らが本気で編むときは、」でもそうであったように、りんこさんも母になれず、今作でもまた、なぎさも一果を傷付けていた実母によって暮らしを壊されてしまった。
日本では、産んだらただそれだけで、愛よりも強い保証があるという事実が残酷だった。
何より腹立たしいシーンは、男がなぎさに奮った暴力とも言える行為で服がはだけたとき。
もしもあれが女性であれば、周りは傍観など絶対にしないのに。
でもそんなにも腹立たしく悲しいのに、希望と優しさが全編に、凪のように漂っていた。
もう公開している劇場はないと、DVD化を待っていたが、遅ればせながら観ることができて、本当に良かった。
つよぽんがつよぽんでなく、なぎさだった。
そして新人と思えぬ一果役の子が素晴らしかった。
感情に駆られて賭けに出ること
草なぎ剛の違和感のなさは文句なしの前評判通りだったが、主人公の少女の言葉少なさもよかった。自分を理解して饒舌に話せる子供はそんなにいるものではない。
私が目に焼き付いて離れないくらい衝撃だったのは、一果が卒業後に凪沙の変わり果てた姿に対峙するシーンで、ここで思ったのは、悩みや葛藤は尽きることがなくても、健康で実直な選択ができている限りはささやかでも幸せを感じる瞬間はあるはずだが、無茶をして体を壊してはいけない、ということ。でも、感情に駆られて賭けに出ることは悪いことではないし、リスクを取らなければ変わらないこともある。現実の大多数の人は賭けに敗れ、成功を託す人すらない。だからこそ成功を託す人がいるという物語は希望があり、希望がある映画はいい、と、こんな時代だからこそ思った。
浅い描写と冗長な展開
普段は邦画(アニメーションを除く)を敬遠しがちなのだが、話題の映画ということで。
主役の演技は総じて悪くないと思う。しかし、凪沙(草彅剛)が一果の前で初めて涙を見せる場面には少し違和感があった。感情を堪えきれずに涙するという場面のはずが、台詞から妙に説明臭さを感じる。そもそも、小学生の頃から性同一性障害を自覚して生きる凪沙がそれだけを理由に号泣すること自体、少し考えにくい。失恋など何かきっかけがあれば話は別だが。「性的マイノリティの苦しみを描く」というコンセプトばかりが先行して、説得力を欠いてしまったシーンだと思う。
(その他にも、凪沙の面接のシーンなどは「性的マイノリティへのハラスメント」を描きたかったのだろうが、意図が見え見えで白ける。あのような台詞も現実には見られない。)
ストーリーがやや冗長に感じたのは、テーマを絞り切れていないことが原因だと思う。凪沙の性的マイノリティとしての葛藤、「母親」としての葛藤、一果の内面とバレエの成長、実親からの虐待、友人の死など、プロットが余りにも煩雑である。よって例えば、友人(恋人?)の自殺という重要な出来事も浅い描写に限られてしまっている。もう少し凪沙に焦点を絞って脚本作りをした方が内容も濃く、物語の軸が定まったのではないかと思う。脚本が役者の努力を殺してしまった、と言っても過言ではない。
ところで、タイの性転換手術に言及したレビューを見かけた。あれは手術の失敗というよりは凪沙の自暴自棄が原因ではと解釈した。手術後に一果を迎えに行くも、取り戻すことができず、生きる希望を見失ってしまったのだろう。もちろん一果には本当の理由を話さず「油断」と誤魔化したが。そう解釈すれば、あの時凪沙は絶望の中で病に伏していることになるが、それが予期せず一果と再会でき、一緒に最期を過ごすことができたのは、母として本望だっただろう。
トランスジェンダーと母性
強く印象に残ったのは凪沙の美しさだ。
初めのお店のシーンで「スクール水着が着たかった」と話していた時は違和感があったが、一果がお店のステージで初めて踊った時に見とれる凪沙は美しいと思った。
草なぎがこんな名優だと知らなかった。
そして虐げられて育った無口な少女が凪沙と出会うことにより、しっかり自分を見つめる女性に変化していく。そんな演技ができる服部は素晴らしかった。
それでも、この映画の最大のテーマは「母性」ではないだろうか?
一果がコンクールの舞台で動けなくなった時、あれほど虐げられた母親を頼ってしまった。
母親の持つ母性とはかくも強力なのだ。
それを見た凪沙は、母性を持つために女性の身体を持つことを決意した。
また、一果は女性の身体になった凪沙を見て、自分にとって母親より重要な存在に気づいた。
昔「トランスアメリカ」と言う映画を見たが、トランスジェンダーになって実家に帰った時の親の反応が余りにも対照的だ。
また「トランスアメリカ」を見たくなった。
もうマイノリティでは無いよ。
周りにゲイの友だちも多いので、存在自体をどうとも思う事も無い。
が
すでにマイノリティとも思ってないゆえ
この映画の中で何度か出てくる「何で私だけ」と悲しむ姿に関しては、あまり同情してあげられないと思ってしまう。
それぞれ、自認する性の不一致だけで無く、色々な悩みを抱えてる人が世の中には居るから。
視点を変えれば、一果の母も苦しんでいるかもしれない。
凪沙の母も、息子の事で悩んでいるはず。
LGBTQだけではない。
登場人物の心境の変化が少し急展開だったような気も。
一果と出会う前から、凪沙の歩んできた人生をもっとじっくり見たかった。
性転換手術からその後の大変さが描かれてるのはとても良かった。
切って縫って、ハイ、終わり。じゃないからね。
説明不足なのにちゃんと分かる巧みな作品です
バックストーリーが足りないな、でも何か観ることのできる映画だなと感じました。
こう書くと低評価のようですが、決してそうではありません。結構高く評価しているんです。
バックストーリーというのは物語が始まるまでのストーリーのことです。脚本家は登場人物を考えるときに、その人物の性格や経歴、プロフィール、信条や価値観、友人関係、何に影響を受けて育ってきたか、どんな思想を持っているか、さらには両親や祖父母がどんな人生を歩んできたか(本人が生まれる前の経歴)といったことを考えます。
バックストーリーの大部分は、映画本編には使われません。なのになぜ考えるのかというと、その登場人物のことを掴むためです。例えば犬をかわいがる場面があったとして、過去に自分で犬を飼っていた経験のある主人公と、犬を飼ったことのない主人公とではかわいがり方が違うはずですよね。その小さな違いの積み重ねがキャラクターを作り、映画のテイストになったりリアリティにつながったりするんです。
で、そのバックストーリーの中には、映画本編でも描いておいた方が良い情報もあります。登場人物の過去のできごとや経歴をある程度描いておかないと、その行動やシチュエーションが唐突に思えたり納得できなかったりすることがあるんです。
例えばこの映画だと、最も気になるのは「一果は何故バレエがうまいのか」。その理由を描いておかないと、観客の頭にはずっと「?」が浮かんだまま観ることになってしまいます。バレエの先生に「習ってた?」と聞かれ薄く頷くシーンや「癖あるねぇ」と言われるシーンはありますが、これだけでは弱いです。実は3歳からバレエを習っていて、小4の時に親の事情で辞めさせられ、それからは独学で練習してた、といった説明がないとスッキリしません。
バックストーリー以外でも、ストーリー上、説明しておくべきことがあまり描かれていない印象です。とくにナギサと一果が心を通わせていく過程はもっとしっかり描いてほしいです。二人がそこまで互いのことを信頼しあうようになる要素ってあったっけ?という疑問が最後まで残りました。
一果のバレエ友だちのりんが怪しい撮影スタジオに通って母親の期待を裏切るような行動を取っている理由もいまいち明確ではないですし、りんは最後はバレエができなくなったことに絶望したのでしょうか、それとも母親の期待に応えられなくなったことに悲観したのでしょうか。
また、一果の母は最後、どうして一果がナギサのところに行くのを許したのでしょうか。
こういったことは、できれば説明してほしいです。
でも冒頭に書いた通り、この映画ってこんなに説明不足なのに、全然理解できないっていうこともないんですよね。
一果のバレエがうまいのも、「あぁ、習ってたんだ。きっと元々才能あったんだろうね」と思えなくはないですし、ナギサと一果が心を通わせていくのも、一果が最初は掃除を拒否していたのにある日突然部屋を片づけていてナギサが驚くシーンとか、まったく描かれていないわけでもないので想像できます。りんの心情も、足の怪我が原因だとわかります。
たぶん想像できるかできないか、ギリギリのラインを狙って作られているんですよ。そこが巧いなぁ〜と思いました。
とはいえ僕は、ちゃんと説明してほしい派です。
テーマとか世界観とかスタイルによっては、描かずに想像させた方が深い作品になることがあります。説明が入るとテンポが悪くなるから、あえてそのシーンを外す場合もあります。でも、基本的には説明不足だと感じさせない方が良いと思っています。
バレエの映画を観たい方にはオススメしない
本当に終始[なんだこれ]という感じの映画でした。草彅剛の女性姿だけは綺麗です。
序盤は主役の子と草彅剛の2人の慣れないぎこちない距離感の演技上手いなぁと思ってましたが、心が通じ合った場面も含め最後までずっとその調子で、結局ただの棒演技というだけでした。
やるせなさや生きにくさに焦点を集中したいあまりにストーリーを通してずっと悲惨orトラブル~一瞬の日常(比喩ではなくほんとに数分)また悲劇の繰り返しでまた?没入感がなくただただ胸糞悪いだけでした。
その原因の1つとしてはぐれ者を題材にしている作品だとしても登場人物のほぼ全員がクズ。
主役の才能とか強さとか母性を演出したいにしても絵に描いたようなクズばかり。
誰も幸せにならず、救われなすぎてラストにとってつけたかのような白々しさをも感じた。
ここまでするならいっその事、海への入水、その後どうなったか分からないENDの方が別作品の名前を出して悪いがまるで[誰も知らない]のようでよっぽど納得出来た。
「死と再生」の物語 (ネタバレあり)
この作品のテーマは、草薙演じる凪沙に芽生える母性愛である、と巷では言われていますし、実際に公式サイトでもそのように語られています。
「社会の隅に追いやられた者同士の、奇妙な共同生活のなかから、互いへの愛情が芽生える。そして凪沙には母性が芽生え、実の母に奪われた一果を取り戻すために、凪沙は・・・」(公式サイトより)性転換手術を受ける決断をする。女性化した身体になって、一果を「母」のように受け入れる
準備を整え、彼女を広島に迎えに行った。しかし、手術によって身体が女性化してきた凪沙を、実家の母親をはじめとする親戚一同が化け物のように扱い、あらん限りの罵詈雑言を浴びせて、実家から追い払ってしまう。この、性転換手術の動機は、一果の母になるためとされている。
しかし、私は「母性愛」などという、言い尽くされ手垢にまみれたものではない、もっと別のテーマがあると思う。凪沙は、一果の母になりたかったのではない。一果その人になりたかったのだ、と私は観た。
この作品の重要なモチーフは、反復と繰り返し、である。ニューハーフショークラブ「スイートビー」の楽屋で、「白鳥の湖」の「四羽の白鳥の踊り」に出るためにメイクをして準備に余念のない凪沙たちの様子から、この映画は始まる。四人のニューハーフの踊り子たちが舞台の控室でメークをするのと、ほぼ同じ画面がラスト近くで反復される。その画像は、DVD発売前の現在、入手できなかったが、一果が海外のバレエコンクール(ローザンヌ?)出場の折、「白鳥の湖」のオデットを踊るために楽屋でメークをしている場面だ。反復と繰り返し。これがこの作品に通底する、母性愛よりももっと重要なモチーフなのである。これについては再び触れる。
凪沙と一果の感情を大きく変えるきっかけとなったのは、中盤の、一果がやばいバイトをしている最中に客に問題行動を起こし、警察沙汰になった後のシーンだ。この風俗まがいのバイトは、そもそもバレエ教室に通うお金を稼ぐためにバレエ教室で唯一親切にしてくれる友人、りんが紹介したものだ。ところが警察沙汰になり、保護者として凪沙が呼び出される。凪沙を化け物を見るような目で見たりんの母親は急に態度を変え、すべてを彼らの責任に転嫁しようとする。ショックを受け、自分の腕にかみつく自傷の発作をまた起こす一果を抱き抱え、凪沙はこう言う。「うちらみたいなんはずっと一人で生きていかんといけんのじゃ。強うならんといかんで」。初めて二人の心が通じ合った瞬間である。
精神が不安定な一果を一人にしておけないと言って、凪沙はその夜、「スイートピー」に一果を連れてゆく。ところが、凪沙たちニューハーフの「四羽の白鳥の踊り」を見ていた酔客が彼女らの踊りを罵倒し、それに抗議した凪沙たちと乱闘騒ぎになる。その騒ぎを尻目に、一人、一果が踊り出すと、その酔漢さえもがあっと驚き目を奪われるのだった。
一果のレッスンのことはつゆ知らず、その成果を初めて目の当たりにした凪沙は一果を見直す。店の外で待っていた一果に白鳥の羽の髪飾りを渡す。「これ、上げる」
この時のスチル写真は、小説の表紙に使われていることからわかるように、作品全体を象徴している。この直前、凪沙は、一果を社会から忌み嫌われのけ者にされている自分の同類として、抱きしめて「強く生きろ」とエールを送ったのだった。だが、一果は自分の同類なんかではなかった。踊っているところを気持ち悪いと罵倒される自分とは全く違う、異次元にいる人間なのだった。自分を罵る酔客さえも、一果の踊りの美しさに舌を巻いた。つまり、一果は凪沙の対極にいる人間であり、凪沙にとって、もしなり代わることができるものなら代わりたい、理想の存在であることを、突如見せつけられたのである。白鳥の髪飾りを一果に上げる、というのは、まさにありうべき自分の理想を、自分の夢を、一果に託したことの象徴である。
その後、二人の感情は急速に解きほぐれて親密になってゆく。凪沙は一果からバレエの手ほどきを受けたりする。また一果の健康を気遣った料理を作ったりもして、この間お互いに対して愛情が育っていった。
そしてその愛情が「母性愛」なのか、という話なのだが、なにしろDVDがなく、すべての動画から画像を持ってくることができないため、画像で論証することができないのが残念である。結論を出すために、最後の海辺のシーンを考察したい。
海外のバレエスクールで学ぶ奨学金を得た(?)一果が広島の親元から上京し、久しぶりに凪沙の部屋に行くと、彼女は術後の手当てが不十分であったため感染症をおこしたのか、意識も混濁して瀕死の状態であった。それでも、どうしても海に連れて行ってほしいというので、一果はバスに乗って、砂浜の海辺に連れて行った。そこで凪沙は、スクール水着を着ている少女姿の自分の幻影を見る。それは幼き日の彼(女)が、なりたくてもなれなかったものだ。なぜ自分は女子の水着ではなく、男子の水着を着ているのか、と愕然としたという、本来のあるべき自分。それが凪沙にとって、女の子用の水着を着た少女なのだ。そして、一果に白鳥の踊りを踊ってくれと懇願する。海を背景に白鳥の踊りを踊る一果の姿は、まさに一羽の白鳥であった。スクール水着姿の少女が、白鳥を踊る一果へとなり代わったのである。それこそが、凪沙がなりたいと願い続けてきた姿、しかしどうあってもこの世では叶わない夢の姿、つまり、理想の分身なのである。その姿を見ながら凪沙は息を引き取った。
じつは、この画面はルキノ・ヴィスコンティの『ベニスに死す』のラストシーンのオマージュである。疫病が蔓延してきて、観光客がほとんど去り閑散としたベニスの砂浜。ずっと向こうの砂洲に立っているのは、主人公の老芸術家、アッシェンバッハが恋焦がれた美少年タジオである。仲間と喧嘩して機嫌を損ねたタジオは、一人でどんどん海に分け入り、そして浅瀬の砂洲に辿り着いたら、ふと、彼方を指さして、どこかへ誘うような仕草をしたのである。折り畳み椅子に座りこの一部始終を目にしていたアッシェンバッハは、タジオの誘いに応じて立ち上がろうとするも、そのまま事切れた。
『ミッドナイトスワン』でも、タジオ少年のように、一果もどんどん海に分け入る。まるでこのまま入水自殺でもするのではないかと思わせる勢いで。そうだ、彼女はこの時死んだのだ。凪沙が死んだのと同時に。それまでの一果は凪沙と共に死に、そして生き返った。新しい一果として。沖に向かって海を進みゆく一果の姿は、死と再生を表している。ただし、蘇った一果はそれまでの一果ではない。凪沙を自らのなかに取り込み、凪沙と共に蘇ったのである。凪沙の夢を実現し、凪沙の生をも生きる一果。凪沙もまた、一果のなかで生まれ変わったのだ。それを表すのが、先に触れた「反復」と「繰り返し」のモチーフである。
最後、コンクール会場に向かって闊歩する一果は、かつての凪沙と同じ服装をしている。凪沙のコートと赤い靴、そして革のパンツを、一果は譲り受けた。凪沙の夢は、一果が、その足取りのようにしっかりと力強く継承した。凪沙は、一果の中に生きている。一果になりたいという凪沙の夢は、一果によって受け止められ、そして美しく成就した。「反復」と「繰り返し」のテーマが何を意図していたか、ここで明らかになろう。ラストでそれは、見事に「死」と「再生」のメッセージと協奏するのである。
本当の気持ちには触れられないけど…
ラストに近づくにつれて
衝撃的なシーンが多く
心をえぐられるばかり
本当の辛さや苦しさなんて
当の本人にしかわからないし
悔しい、悲しいなんて感じても
所詮他人事だよねって思うけど
一果ちゃんがあのまま入水し続けず
ちゃんと夢に向かって進んでたことが
ちょっとホッとした
友達の飛び降りとか、凪沙の死とか
あの辺り、想像着いちゃうのは
しょうがないのかな。
全体的に暗く重い
娯楽映画ではないから気分が沈んでるときに見る作品ではないです。
単純におもしろいつまらないと断ずるのが難しいですね。
わざわざ見に行くほどではないかなと思います。
全体的に出演者の演技レベルが高く、作品の世界観に集中して観覧することができました。
草彅剛演じる 凪沙(本名:武田健二)
トランスジェンダーの男性役ですが、見事ですね。
一挙手一投足、女性を感じさせる所作。
表情等による内面の演技。悪くなかったですね。
ただ泣きながら思いを吐露するシーンがあるのですが、なんか泣きの演技が下手糞に感じ気持ちが離れてしまいましたね。笑っちゃったもん。
服部樹咲演じる 桜田一果
この作品がデビューなんですってね。あんまりしゃべらない役だから演技の良し悪しはわかりませんが、バレエの演技がすごかった。
この方、バレエ経験者でもともと上手なんですが、役柄的にバレエ下手なとこから上達していくんです。
この下手な演技がメチャメチャうまいのよ。そんで後半のバレエは単純にうまいのよ。バレエ真面目に見たことないので基準はわかりませんが、ともかく上手く、なんか綺麗だった。
上記二人を主軸として物語が展開するのですが、ところどころ観覧者の心を攻めてくる展開があります。
一番胸が苦しくなったのは、凪沙の母ですね。
母は凪沙が女性として生きていることを知らず、トランスジェンダーに対しても病気と認識しているんです。そんな凪沙と母は数年ぶりに直接会い現状を知るわけですね。パニックですよね。
母「お願いだから元の健二に戻っておくれよ~。病院に行って直しておくれよ~」
凪沙「母さん、これは病気じゃないの。病気じゃないから直すとかじゃないの。」
一番心に残ったやり取りですね。
私はこの母親役の演技が一番良かったと感じました。
母親の怒り、混乱、悲しみ、現実を受け止められない気持ちが想像に難くないだけに本当に心に来るものがありました。そんな入り混じった思いをよく表現してました。
自身のあたりまえの世界は大変恵まれているのだと再認識しましたね。
思っていたより暗い内容じゃなくて良かった
SMAPのファンだけど映画は洋画のアクションやミステリーが好きなので観るかどうか迷ったけど、知り合いのSMAPファンでもない人が見に行って良かったと言っていたので観賞した。
泣くのをすごく我慢しても登場人物のセリフで涙と鼻水が出てきてしまうので辛かった。涙もろい私には疲れた。
話は良くまとまってたと思う。泣くのが嫌で早く終わって欲しいと思ってしまったがちょうどよい長さだと思う。
いちかが東京に来た時になんで来ざるを得なかったのかわかってるはずなのに冷たく接しなくてもいいのにと思った。
いちかにバレエがあって良かった。引きこもりタイプだったらバレエに興味あっても教室行けないから。
お友達は可哀想。いちかのせいじゃないけど関わってからだから悪い方に動いてしまったなあと。今までの寂しさとかが積み重なった結果だけどね。
剛くんはキレイに見えたりそうでなかったり。短髪はやっぱりいつものつよぽんで安心する。
なぎさといちかの演技が良かったなと思う。
最後のなぎさは可哀想だなあ。なぎさも悪い方に動いてしまった気がする。でもなぎさはいちかに会って良かったとは思う。
ちょっとディープな世界があってびっくり。
現実の世界でおかまの人を見かけると、あまり見かけない分気になってしまうし、そういうお店も行きたいなと思ってしまうけどなぎさのように悩みを抱えてるんだなと思った。
テレビや漫画でも女っぽい男とか昔は平気でからかったりとかネタであったりしたけど今は考えなきゃいけない時代になったんだなと思う。まだ私も心の底では偏見とかある気がする。
学校でも企業でもいい題材になる映画だと思う。
障害とは何か?‥
トランスジェンダーの主人公と、周りの人々との様々な出来事が起きる。
凪沙の痛いほどの女性性への思い、一果の母親の愛を求める苦しみ、似て非なる二人が出会いお互いを求め合う関係になるまでを丁寧に描きながらストーリーが進む。
障害には色々なものがあるが、一番の苦しみは本人にしか分からない。ただ、気持ちを汲み取り寄り添うことは出来る。
一果は、凪沙にしっかりと寄り添った。
凪沙も一果を母親の愛で包んだ。
無くてはならない二人。
ラストシーンは、原作と異なるが、そこもまた見所になっていると思う。
障害とは‥何かが一番心に刺さった。
疑問多し、原作を読まなくては
評価が高かったのでみたけれど、時間が2時間では語り尽くせなかったのかな、小説だから時間の早さ仕方がないけど、2か月位で発表会で、3年位で留学でどんだけ才能があるんだ。ドラえもんのさい種飲んだの!
で、八王子大会の結果は?なんで血のオムツ?どんだけ稼いだの?何したの?どうして病院に行かないの?疑問が多くて入らなかった。ただ衝撃的なのが友達がビルから飛んだところ。あと、留学先で出てきたとき、今お騒がせの眞子さまそっくりに見えてのは自分だけかなぁ。
「良い映画」「悪い映画」と論ずるのは憚られるような名作
前々から観てみたいと思っていた映画、ようやく鑑賞いたしました。
どの映画レビューサイトでもかなりの高得点をたたき出している映画だったため、ハードルは異常に上がっていました。事前知識を入れないために、予告編映像などは観ないで鑑賞しました。
結論。とんでもない映画でした。映画を観た後も、腹の中に残り続けるような映画です。鑑賞後に自分の中で映画の内容を咀嚼すればするほど、その濃厚な味わいを感じられるような不思議な映画でした。個人の感想ですが、観終わった後も味わいが残る映画は名作が多い気がします。ポンジュノ監督の「母なる証明」やデビット・フィンチャー監督の「ゴーンガール」が、私の中の「味わいが残る映画」なのですが、どちらも歴史に残るような名作映画でした。この「ミッドナイトスワン」もまた、歴史に残る名作となることは間違いないでしょう。
アメリカでは昨今の過激なポリコレによって、ストレートの男性がトランスジェンダー役を演じることに批判が殺到して俳優が映画を降板したなんていう実にくだらない事件がありましたが、そんなご時勢でもトランスジェンダーの凪沙を完璧に演じきった草なぎ剛さんに、最大限の賞賛を送りたい気分です。観終わった後では草なぎさん以外の配役は考えられないほど、見事な演技だったと思います。
・・・・・・・・・
男性として生まれたが性自認は女性であるトランスジェンダーの凪沙(草なぎ剛)は、性転換手術の費用を貯めるためにショーパブで働きながらコツコツと貯金をしていた。ある日、とある事情から親戚の中学生である一果(服部樹咲)を預かることとなった。最初は一果に対して素っ気無い態度を取っていた凪沙だったが、一果が好きなバレエを通じて心を通わせ、いつしか二人の間には母子のような愛情が芽生えていくのだった。
・・・・・・・・・・
この映画は全編を通して、ひたすらに美しい描写が続きます。登場人物の1つ1つの所作、映る背景、心模様など。全てにおいて美しく、尚且つ自然体に見えます。
演技が凄い自然体なんですよね。声を全く張らないし、身振り手振りもあんまり無い。だからこそキャラクターがそこに生きているような感覚が感じられる。
「トランスジェンダー」という要素も活きていたと思いますし、今作でデビューする新人の服部樹咲ちゃんの見惚れるように美しいバレエ演技も、ラストシーンに非常に映えていて本当に素晴らしかったです。
劇中には凪沙のようなトランスジェンダーの人たちが社会的に不利な状態に追い込まれたり、周りの人から理解が得られないなどの観ていて辛く感じるシーンも多いため、「LGBTQに対するネガティブな部分が詰め込まれたような映画だ」と今作を批判する人がいるのも理解はできます。しかし、それらのネガティブな部分もぼやかさずにキッチリと描写することで、これまでLGBTQを身近に感じたことの無い私のような人間にも凪沙の苦労がしっかり伝わってきました。監督はトランスジェンダーの方々に取材を重ねたり、脚本監修をトランスジェンダーの方に依頼するなど、徹底的な取材と手間に裏打ちされた「リアルな描写」が素晴らしかったと思います。
昨今映画業界ではLGBTQの方々への行き過ぎた配慮によって、逆に炎上や批判を恐れて「LGBTQやジェンダーの話題は避ける」という一周回って差別的な状態になってしまっています。そんな業界に風穴を空けるような、素晴らしい作品でした。
是非多くの方々に観て欲しい素晴らしい映画でした。オススメです。
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