イーディ、83歳 はじめての山登りのレビュー・感想・評価
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人生讃歌の傑作
老女が山登りをするだけの映画だが何故か感動する。役者陣の達者な演技はもちろんのこと、何よりスコットランドの自然が文句なしに美しい。イーディがLovely sightと感心するのもさもありなんと思う。
田舎のやんちゃな少女だったと自称するイーディは、結婚後の半生をずっと夫によって人格をスポイルされてきたと語る。しかし今こそ時は来たれり。心も身体も自分の自由でいることができる。
何かをするのに遅すぎるということはないという、行きつけのカフェのマスターの言葉に勇気づけられたイーディはスコットランド行きの列車に乗る。その時もまだ迷っていたイーディだが、列車が川を渡ると漸く覚悟を決める。その川はイーディにとってのルビコン川である。賽は投げられたのだ。
気位だけは高いイギリス婦人らしく、気安くイーディと呼びかける人々に「ミセス」と呼ぶようにたしなめる。その精神性の幼さに、なるほどと納得した。結婚後のイーディの人生は、夫に対する不満を溜め込むだけで、人間的には何ひとつ成長しなかったのだ。つまり83歳の小娘なのである。そう考えれば、舟を漕ぐのが下手なジョニーを思い切り笑ったり、娘と言い合いをしたりするのも当然だ。
と、ここまで考えて気がついた。世の女性たちはイーディと同じように、どんなに歳を重ねても、心の奥には小娘が棲んでいるのではなかろうか。本作品が世の女性たちの共感を得るとすれば、理由はまさにそこにある。さらに敷衍すれば世の男性諸氏も、どんなにジジイになろうとも心の奥には少年が棲んでいる。行ったことのない場所に行きたいと思うし、見たことのないものを見たり、どこかで誰かに出逢ってみたいと願う。イーディと同じなのだ。
という訳で本作品は人生讃歌の傑作である。世の中には美しい風景があり、優しい若者がいて、窮地を救ってくれる無口な山男がいる。出かけるのに遅すぎるということはないのだ。
素直に見れば感動ものだけど。
人生チャレンジするのにいつからでも遅いことはない、っていうのは感動ものだし老いという現実に向き合いながら前に踏み出す姿は感動だけど弱冠周囲を巻き込んでる感が自分本意に見えなくもない。山登りは危険だしね。
肉を食べるお年寄りは、元気で長生きする人が多いらしい
2階から車椅子エスカレータで降りてくる夫は、そもそも、2階でどうやって椅子に座れたの?服は自分で着ることできないのでは?
スコットランドのインバネス駅のホームに降り立ったイーディに、ジョニーの恋人フイオナがぶつかった。倒れたイーディのこと、二人ともあまり心配してないし…
途中までは、いまひとつ現実的ではないなあ…と思って観てましたが…
イーディさんに笑顔が増えてきて、凍った心が溶けていくのがわかって、気がついた。
そうか、これは、ある意味、『女の子の物語』なんだなあと。
その後も、独りで山に行かせる?道迷い・疲労凍死高率!3日分の食料やテントの入ったザックは重たいだろうし……。オールを落としたボートは都合よく岸に着くし。
でも、これは『女の子の成長物語』。だから、ある意味、なんでもあり。現実だけど現実でなくてもいいんだと。『Wの悲劇』、『あずみ』、『ダイナー』なんかと同じように。
イーディさんは、結婚してからは時間が止まってたのかもしれない。
雨の夜、実際の猟師でも、お父さんのメタファーでもどちらでもいい(焼くことができなかった、大事に持っていた葉書。窓辺にそっと置いて小屋を出ました)。
息をのむような美しい景色があいまって、ひとつひとつのシーンが心地よく、清々しく響いた。ずーっと、うるうるして観ました。
そして、スイルベン山が、はっとするほど美しかった。
イーディ役のシーラ・ハンコックさんがサイコーにカッコよかった。
スケールは違うかもしれないけれど、(屋久島の)モッチョム岳を思い出しました。
Never too late!
僕達の日本にも通じるような物語だ。
仕事や生活に追われて、その後は、介護や生きていくことに精一杯になって、年齢を重ねて、いろんなものから解放されて、ふと振り返った時…。
特に、イギリスはサッチャー改革で、「ゆりかごから墓場まで」といった高福祉社会は、ずっと昔のことになってしまった。
Never too late!
よく言われるセリフだ。
でも、人によっては、反感を覚える人がいると思う。
今更、何をやれって言うの!?とか、
もう、無理無理!?とか。
でも、おせっかいな人は周りにきっといるし、自分から歩み寄ることも出来る。
助けを借りて、何かを達成したって良いような気がする。
僕の母親は、85歳になって軽い認知症の症状が出てきてしまった。
でも、60過ぎてから、スキーを始め、中斜面だったらスイスイ滑れるようになった。
70になってから富士登山をやった。
それで、自信をつけ過ぎて、骨折して手術して、入院して、しばらくしたら認知症の症状が出てしまった。
でも、本人には後悔はないように思う。
これを読んでくれてる人に、僕は直接手を差し伸べるようなことは出来ないが、もし良ければ、僕の大好きなサミュエル・ウルマンの「青春の詩」という詩を読んでみてください。
最後の一文は、ちょっと説教くさいですけど…。
青春の詩(Youth)サミュエル・ウルマン
青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。
若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、安易(やすき)に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。
人間は年齢(とし)を重ねた時老いるのではない。理想をなくした時老いるのである。
歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。
悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。
六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬・夜空に輝く星座の煌きにも似た事象や思想に対する敬愛・何かに挑戦する心・子供のような探究心・人生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことができる。
人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
自然や神仏や他者から、美しさや喜び・勇気や力などを感じ取ることができる限り、その人は若いのだ。
感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、人間は真に老いるのである。
そのような人は神のあわれみを乞うしかない。
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