「諦めるのを待たれてる」大コメ騒動 U-3153さんの映画レビュー(感想・評価)
諦めるのを待たれてる
存外、シリアスな内容だった。
貧困層のクーデターと片付けられればいいのだろうけど、そういう問題ではない。
総中流社会になってから産声を上げた俺が、分かち合える等とは烏滸がましいのだが、それでも十分響いた。
体制の犠牲になる者達とか、境遇の不遇さだとか、拡大解釈だと思ってはいても色んな事に思考が巡る。
例えばシングルマザーの状態であったり、嫁ぐという風習だったり、男社会の横暴さであったり…ドキっとするのは、これらの事が現在進行形であり過去の出来事と言い切れないんじゃないかって事だ。
形こそ「大正17年」にはなっているけれど、様々なシステムや、それを決定する機関の根底などは変わってないのだろうと考えてしまう。
冒頭の唄はオリジナルなのだろうか、それとも当時のものなのだろうか?
背筋が凍るような自虐的な歌詞で、日本人ほど支配に適した民族はいないと確信できる。
武家社会の名残を如実に受け継いでいるというか、主従関係への盲従や順応力の高さに震えがくる。
かくいう俺もその1人ではあるのだけれど。
ご丁寧にこの国には仏教の教えが広まっていて、善行を徳とし、行えば極楽浄土に導かれる。
それに反し、悪行を行った罰則は地獄に落ち、この世で裁かれなくても閻魔様が裁くというのだ。
ホントか嘘かは知らない。
確かめようもない。
仮にそれが真実だとしても、それを権力者が利用してはいけないのではないかと思う。
今の政府の「自粛要請」等はコレに該当してしまうんじゃないだろうかと勘繰ってしまう。
そうではなくとも、その善行を礎にしてのさばってる連中は、少なからずはいる。それらは閻魔様が裁く。いずれシッペ返しがくる。因果応報。
…この類いの思考は諦める事を正当化する為の言い訳なんじゃなかろうかと、この映画を見て思う。
拡大解釈も度が過ぎると思いながらも、筆が止まらないのだ。
主人公は言う。
「諦めるのを待たれてる。諦めたら終わり」だと。
思い当たる節がいっぱいある。
今作の米のように命に関わる問題ではないにしろ「仕方がない」と思う頻度は結構多いんじゃなかろうか。
なぜなら諦めた方が楽だからだ。
いや実際諦めざるを得ない事柄もいっぱいあるのだけれど、その選択で良かったのか、と。
長屋の奥様も言う。
「通り過ぎるのを待つしかない」
…実際そうなのだけれども、ホントにそうか?
いやもう、考えても意味ないのだけれど、今後の人生に何かしらの波紋は起きそうだ。
劇中の主人公は捨て身になって行動を起こす。
今、起こさなきゃ死んでしまうからだ。
そこに至る思考も自分勝手で人間くさい。
小さい子が死んでしまったり、息子が士官したいと言い出したりと「他人事」では済まされなくなった。
気になるのはその後だ。
米の流出は阻止したものの、その米はどおしたのだろう?皆で食べれたのかな?
強奪してもいいような状況ではあったけれど、恩赦として何俵かは貰えたりしたのだろうか?
…社会的に強奪ならば犯罪なのだろうけれど、そこまで追い込んだのは社会だ。
自ら犯罪を助長したと言っても過言じゃない。
とますれば、現在にも当てはまるかもしれない。
自粛による困窮から犯罪に走らざるを得ない境遇の人が出てくるかもしれないだろう。
その人達を社会的敗者として断罪してもよいのだろうか?作中の人達はどおやら恩赦があったのか、貧乏は変わらずとも普通の生活には戻れているようだった。
今の社会は即座にに排除しそうで怖い。
いずれにせよ、堪え忍ぶ事は美徳ではない。
そして、この作品を「大コメ騒動で初笑い」とか書いた紹介記事があったけど、とんだサイコパス野郎だ。
これで笑えるとしたら差別も戦争も無くなる訳がない。社会情勢や経済の問題ではなくて、人としての摂理の問題だ。
EDの米米クラブには吹き出したけど。
アレはこの期に及んでダジャレかよ的な緊張と緩和だ。
所々方言がきつ過ぎて何言ってるか分かんなかったけど、室井滋さんは熱演だった。
助演女優賞を進呈したい。オババの発する言葉にこそ真価あると思う。風体は褒められたもんでもないのだけれど。そして夏木マリさんが、もうこれでもかってくらいドスッピンなのだけれども美しかった。
凛とした品格といい…どハマりなキャスティングだった。夏木さんを通して語られるメッセージがあるとすれば、作品の対極のようでもあり、よくぞ参加してくださったと拍手喝采。
誰かが言ってた。
「この世は修行の場なのだよ。だからしんどくて当たり前なのよ。」
…究極な意見だよなぁ。