「見るべき点はあるが、全体的に説得力の弱さが散見される」羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ) ぼくが選ぶ未来 rennnennさんの映画レビュー(感想・評価)
見るべき点はあるが、全体的に説得力の弱さが散見される
フーシーと館との葛藤が収束する地点はなかなかに考えさせられるものがある。
人に混じって暮らしている妖精はたくさんいる。それを楽しんでいる妖精もいる。人は妖精を妖精とは気づかないが、それでも妖精とともに生きていて普通に社会が回っている。多文化共生。しかしそれに合流しないマイノリティは「バカだな、材木にされるだけだ」「公園になるかもしれんぞ、有料のな」、つまりマイノリティの道具に堕する…?
ここを多文化共生の問題点の自覚だとするとなかなかにパンチの効いた社会批評だと評することができるだろう。逆に多文化共生への素直な肯定だとすると、一転、マイノリティの否定とマジョリティの礼賛というキナ臭い話に…。
内容をよく覚えているわけではないが、このあたりはかなり印象的なシーンだと感じた。
以下雑感。
魔法について。
魔法とか属性とかが悪いわけではないが、しかしそこには心理的な意味づけやストーリーにとって不可欠な要素であるという理由付けが必要だろう。
空間属性、氷属性、木属性、火属性・・・。しかしなぜそれなのかという理由が感じられなかった。有り体だが、例えば空間属性は心のあり方、氷や木は水資源問題や森林問題、火は文明や産業、などとリアルな要素との結びつきがあれば入っていきやすい。作品に環境問題への意識があるのだからそう無理な注文でもないはず。そういった意味づけなしに属性とか言われるとアニメやゲームから遠ざかっている大人は置いてけぼりを食らってしまう。
今思えばフーシーの強奪魔法に関してはそれなりに意味を感じられる気はする。
フーシーはどうも三下を操ってシャオヘイの救出を偽装したり、館の宝物を強奪したり、シャオヘイの能力を強奪したりと、よく考えると相当の悪党で、逆に言えば魅力的なキャラだ。もう少し掘り下げてほしかった。「昔はまだしも人間と共存できたが、こと今日に至ってはもはや限界だ」だけでは動機としていささか単純ではないかと感じる。
フーシーとその仲間との関係が示されないのも不満の一つ。彼らはいかに生き、出会い、志や友情や利害をともにしたのか。
その仲間にしても、なぜロジュはああもシャオヘイに肩入れするのかが理解できない。ムゲンの言葉ではないがたまたまわずかばかり時を同じくしただけではないか。絆の描写にもう少し味付けが必要ではなかろうか。
ロジュがあんなに必死にフーシーを止めようとするのはフーシーと思想を異にするからに違いないし、そのような思想を抱くのは彼の生い立ちがフーシーのそれとは類似しないためであるはずだが、そういった彼の事情が開陳されることはなく、そのあたりも物足りなさの原因の一つになっている。
ムゲンに関しては、「人間のくせに強すぎる」。
ということは妖精は単体では人間を遥かに凌ぐ存在であるわけだ。妖精を自然の寓意だとすると納得できる話だ。そこへ強大となった人間(ここではムゲンだが)が妖精(=自然)との葛藤を処理していく。そこには「嫌われている」にとどまらない複雑な思いが存在するはず。そのあたりの説明力が弱いような気がした。