「日中比較――『無限列車』と『羅小黒』」羅小黒戦記(ロシャオヘイセンキ) ぼくが選ぶ未来 あずさんの映画レビュー(感想・評価)
日中比較――『無限列車』と『羅小黒』
中国には若い頃(まだ外国のインターネットがブロックされていなかった時代)に住んでいた。今も彼の国に関連する仕事をして、仕事関係者も多くが中国人である。そんな私からみて、この映画のテーマは日本サイドで多く言われている「他者との共生」じゃないのではと思った。だって、ムゲン師匠とフーシー、人間と妖精は、どう考えても共生できる関係じゃないのだ(結局妖精のフーシー側が折れることになるんだが)。同時によく言われているように、ムゲン師匠は政権で、フーシーはそれに圧迫される側だ、この映画はそれを正当化しているという解釈も違うかなと思った。ムゲン師匠もフーシーも、どちらが善でどちらが悪という描かれ方はしていないからだ。同時ヒット作『無限列車』の煉獄杏寿郎のような、人々を苦しめる鬼を退治する正義の味方は、この作品には一人も登場しない。そもそも、どちら側もシャオヘイを巡って無関係な人々を巻き込みすぎだ。一人か二人か数十人ぐらい死んでるんじゃないのか(汗)そのくせシャオヘイは目の前にいた女の子を助けようとする。観客はこの時点で白黒はっきりつかない、宙ぶらりんな精神状態におかれるだろう(ちなみに煉獄杏寿郎は『一人も死なせなかった!』)。
ではこの作品が本当に訴えたかったことは何か?私は、「ない」と思う。『無限列車』が人間の弱さとそれでも他人を助け正義を貫くことの尊さを説いたものだとしたら、『羅小黒』はその先の「他人を助けようとした結果街が崩壊し、正義ってそもそも何?」な世界の中で、皆思惑はあれど子供の小黒に未来を託す、その切なさを描いた「だけ」の話だと思う。だから見た後、『無限列車』ほどの爽快感はない。ラストで妖精の館で暮らすことを拒みムゲン師匠についていくことを決めた小黒も、いつかフーシーのような誰かにとっての『厄介者』になってしまう可能性もある。それでも…そこには否定も肯定もしない、突き放したような優しさがある。
ちなみに、中国で作られる映画はみな政府の検閲を受けていて、この映画とて例外ではない。検閲に賛同するつもりは私もさらさらないが、公権力の目にさらされながら出てくる表現は時に「自由な社会」から出てくる表現よりよほど重い。「反体制側(?)」とされたフーシーの最期に、私は涙が止まらなかった。
今年は『鬼滅の刃』で現実世界には絶対いないであろう正義の味方から勇気をもらい、『羅小黒戦記』ではモヤモヤする現実世界を見せられたようでオンオン泣くことができた。違った魅力を持つ日中アニメ大作を同時に見られて、コロナ禍で起きた嫌なこともだいぶ帳消しになった。