夢の裏側のレビュー・感想・評価
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記録と記憶の問題
誰もがスマホを持ち写真や動画や言葉やなんらかの記録を残せる今。ほとんどは個人的な消費として処理されて霧消してしまいそうだが、社会や集団、時代といった枠や関わりの中でなんらかの有機的な役割を果たすことがあるだろうか、紙で色褪せたり破れたりしてなんとか息絶え絶えにまたは誰かに大切にされて残存する写真のような手触りやささやきのようなものはのこるだろうか。
ロウイエ監督が、上映前のメッセージ動画で、過去と現在を記録した、それを映画を見る人の記憶として残ってほしいとみたいなことを言っていた。そのことがこのメインキングというドキュメンタリーでも、ロウイエ監督の作品であるシャドウプレイでもとても重要。観るものがそこに記録されそこに見えている街、村、空、川、土、人、映し出されるもの全てを記憶のチェーンに繋ぎ止めるということがまさにロウイエ監督の映画を見るということの全てだと改めて感じた。
洗心村を無事撮り終えたときの、ロウイエ監督と撮影監督の交わした言葉、もう数ヶ月で失われる洗心をとった、遺した、記憶したという会話にクラクラして涙がでた。
実際に人がまだ住み立退をめぐり未だ闘いや争いや損得の計算があり、分断されたかのように建造物の高低で街が亀裂を持ち取り囲まれ、その中で飯を炊き食らい生きてる人たちの暮らし、投入される再開発野重機、棒を持ち集まり立ち向かう人々、投入される公安警察。
なニモかも隠しているような霧、当たる夕日、当たらない夕日、土埃の匂い、ヘルメットの硬さ、冷たいコンクリートや制度に決められて揺さぶれるいろいろな事柄が、全て有機で人の生の営みに関与していて、それをロウイエ監督の視点思想眼差しで記憶し記憶させられる。
撮り始め、ロケハン、から最後の検閲、プレミア上映までしっかり映画のプロセスも見られ勉強になった、途中弁当手配不手際な制作部叱責やスケジュール管理を守れない俳優さんとのやり取りなど、こんなのも公開して大丈夫なのかと思う場面もあり中国映画界の内情をぶった切るようなところも興味深い。
映画館には若い人が多くて、若い人はほとんど中国語話者の方。みなこの異常なスピードと方向感で激動する街、社会ら国、大陸を、記憶しようとしているのか。どんなふうにこの映画を見られているのか、属性を知らない他のお客さんたちの動機や目線、感想も気になった。
これを見てから本編シャドウプレイ本作を見た方が良いと思う。
「これはイデオロギーの戦いだ。監督のやることじゃない」
映画制作においてロウ・イエが重視していることは単純だ。自分の仕事をやる。これだけでは言葉足らずかもしれない。では補足しよう。自分の仕事でない仕事はやらない。
ロウのスタッフへの指示はとても細かい。それはおそらく、タスクを細分化し、どこまでが自分の領分でありどこからが自分の領分ではないのかをあらかじめハッキリさせずにはいられない彼の作家的性分ゆえだろう。
夜間のロケ撮影中、ロウがスタッフに電話口で怒鳴るシーンがある。そのスタッフはロケ弁の用意を忘れており、ゆえに現場スタッフたちは各自での飲食料調達を余儀なくされたのだ。ロウは自分の仕事を果たさなかった彼をことさら強い口調で責め立てる。それまでどちらかといえば穏便でスタッフ想いだった彼だからこそ、このシーンには緊張感がある。
あるいは終盤、中国当局の検閲を巡ってロウとプロデューサーが揉めるシーン。ロウは中途半端に切り刻まれた作品を公開するくらいならお蔵入りさせたほうがマシだと毒を吐く。対してプロデューサーはスタッフたちの生活のことも考えろと言う。
プロデューサーの言うことはもっともだが、ここでロウの映画制作の信条が思い出される。自分の仕事をやる、自分の仕事ではない仕事はやらない。
彼はあくまで監督という立場から見解を述べている。彼だってスタッフを食わせていかなくちゃいけないことは百も承知だろうけど、あくまで彼の仕事は監督なのだから、その職務に徹した言動を取る。
彼は結局、2年間にわたる中国当局との戦いを強いられることになるわけだが、このときの彼の言葉は悲痛だ。「これはイデオロギーの戦いだ。監督のやることじゃない」。
彼は言う。中国では今もなおこうした検閲が堂々と行われ、作り手も少しずつそれに懐柔されていく。ぬるま湯のような作品ばかりを浴びるうちに受け手もまた二流化していき、中国映画はいつまで経っても世界水準に達することがない。
彼が外国資本を頼ることなくあくまで中国本土で映画制作を続けているのは、中国の肥沃な文化的土壌への信頼と、それを取り戻さんとする確固たる意志ゆえだろう。
当局との戦いはプレミア公開の4日前、全国上映の7日前までもつれ込んだ。公開2日前の記者会見にて、ロウはある記者から「どこがカットされたんですか?」と尋ねられる。彼は「言いたいことは全て作品の中にある」と言ってそれ以上何も語らない。
ロウ・イエはどこまでも「監督」に徹することができる、芯の強い作家なのだと改めて感じた。
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