「「名探偵」としての責任を負って苦悩する「人間ポワロ」に踏み込んだケネス・ブラナー版第二作。」ナイル殺人事件 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
「名探偵」としての責任を負って苦悩する「人間ポワロ」に踏み込んだケネス・ブラナー版第二作。
いやあ、皆さんなかなか手厳しいけど、申し分ない出来だったんじゃないでしょうか。
個人的には、今まで観たポアロの映像化では、いちばん堪能できたかもしれないくらい。
自分は必ずしもクリスティの良い読者とは言えないが(全66長編のうち読んだのは20作くらい)、『ナイルに死す』に関しては原作既読で、ピーター・ユスチノフ版も既見。じつは劇団フーダニットによる演劇版(クリスティによる脚本化だが、けっこう長くてたるい)まで観ている。なので、ストーリーの概要と犯人の正体は承知した状態での視聴。
ケネス・ブラナー版の『オリエント急行殺人事件』も当然封切りで観ていて、壮健でガタイの良いポアロが拳銃片手に走りまくっているのはとても斬新だった。ただ、ミステリーとしては「誰に見せるための犯人サイドの演技なのか」に関してうまく説明がつかないことと、「犯人が某人物の関係者だとわかるタイミングがなし崩し」だというのがどうしても納得いかず、残念に感じてしまった部分もある。とはいえラストの「最後の晩餐」演出や、ポアロの泣かせる名演説には胸を熱くしたものだった。
『ナイルに死す』の場合、どうしても『そして誰もいなくなった』や『オリエント急行の殺人』と比べると、本格ミステリの王道を行くプロット立てで、トリックや組み立てがオーソドックスなぶん、作りが地味になってしまう点は否めない。
ただ『予告殺人』や『殺人は容易だ』と同様、「一皮剥くと、表面上見えている穏当な世界とは似ても似つかない愛憎と欲得の世界が裏で渦巻いている」クリスティらしい作品であることはたしかで、表面上のぱっと見と真相のギャップ度は結構高いほうだと思う。
さて今回の映画化はどうだろう。
オープニングは、まさかの第一次大戦時の塹壕シーンから始まる。
まさにウクライナ侵攻の折で、ちょっとどきっとさせられる。
若きポアロが推理力を駆使して戦況を一変させるが、ブービートラップの爆発で上官を死なせ、自身も巻き添えを食って大けがを負う。
原作でも描かれない「口ひげ」誕生秘話。
さらには、このエピソードは悲恋の影も宿す。
近年の安易な傾向では「生涯独身の口ひげの洒落男」はほぼゲイ属性を無理やり付与されるケースが多いことを考えれば、むしろ意外なくらい「ストレート」なポワロ解釈だ。
『オリエント』でも、アヴァンのオリジナルネタ(塀と卵のミニミステリ)をやっていたが、今回の方が本筋のほうの「主題」と密接なかかわりがあって、出来はすこぶる良い。
ここでいう「主題」とは、ひとつは「愛のミステリ」、もうひとつは「名探偵の推理がもたらす結果責任」の問題である。
「愛のミステリ」という部分に関しては、宣伝でもさんざん強調されていることだし、フーダニットにも関わる部分なので、ここで詳細には触れない。
ただ、船客のそれぞれが、困難な事情をかかえる「異形の愛」に縛られており、それを丹念に描出するがゆえに、通例の本格ミステリよりも登場人物の命が「重く」描かれていることは、注目に値する。単なる「駒」であることを超えて自己主張するキャラクターを登場させると、場合によっては本格ミステリとしての稚気や醍醐味を削いでしまう場合もあるからだ。ゲーム感覚だからこそ、人の死を娯楽として扱っても罪悪感なく楽しめるというのが、本格物の本来のありようでもある。だから、人間ドラマと真面目に向き合い、人物をしっかり描きこめば描きこむほど、本格ミステリを成立させるのは難しくなる。
本作では、そのへんの「人の死の重さ」と「謎解き」のバランスが、実に塩梅よく描かれていて、ほんとうに感心した。
「人の死」が重さを増すと、そのぶん作中人物の悲哀は深まるし、ドラマも深刻さを増す。
その結果として、名探偵の責任も増し、二つ目の主題が自然とクローズアップされる。
すなわち「名探偵の推理がもたらす結果責任」の問題だ。
ポアロは本作で、「推理機械」としての自分と、情深い人間としての自分とのあいだで引き裂かれ、複雑な思いに翻弄されながら、事件を解決へと導く。
さらに本作では、複数の人物が「連続殺人」という事態の招来について、ポアロが捜査に携わったせいだと公言し、詰問する。要するに、ポアロが事件を止められなかったせいで被害が増している、あるいは、ポアロが某人物からとある証言を引き出そうとしたために、犯人の殺意に刺激を与えたとして、ポワロはこっぴどく糾弾されるわけだ。
前作『オリエント急行殺人事件』では、「法と正義」「神の裁きと人の裁き」といった重大なテーマがあらかじめ設定されていたが、ポアロ自身はそこまで「名探偵であること」の意義を問われたわけではなかった。
今作『ナイル殺人事件』では、まさに「ポアロが名探偵であること」の意義が再考され、彼の探偵法、自己顕示欲、人とのかかわり方にまで、徹底的にメスが入れられる。
ここまで、真摯に「名探偵であること」を掘り下げねば前に進めない感覚というのは、『ダークナイト』以降、アメコミヒーローものの多くが「ヒーローであること」を掘り下げねば許されない風潮に陥っていることと、実は同根なのだろうと思う。
時代が深まってきて、人々はあっけらかんと「人を裁く」存在を許さなくなったのだ。
ポワロといえども、「ヒーロー」の端くれである以上、正当性に対する批判と自己省察の餌食にならざるを得ない。石坂金田一のころは「しまった!」で済まされていた「連続殺人を止められない名探偵」という自己矛盾にも、当然ツッコミは入れられることになるわけだ。
そんななか、人として覚える共感や後悔といった感情の高ぶりを必死で抑えながら、いつも以上に過激で攻撃的な「探偵」としての尋問を遂行するポアロの描写には、鬼気迫るものがある。
本作におけるポワロの尋問術には一定のパターンがある。
相手がまさかバレていまいと思っている「隠された真実」を、客観的分析によって見抜き、しょっぱなからぶつけ、動揺する相手に対して「あなたには動機も、実行手段もある」と決め付け、いわば「ゆさぶりをかける」というものだ。彼の名探偵としての優秀さと、人を人とも思わないような冷徹さを強調するには、じつにぴったりの描き方を作り手は選択している。
いっぽうで本作では、ポアロが感情的になって、涙目で自らの過去に触れたり、相手の難詰を真摯に受け止めたりするようなシーンが何度も出てくる。ポアロの「名探偵」としての苛烈なペルソナの背後には、傷つきやすい少年のような心と、膨満した自己顕示欲、そして事件関係者に対する深い共感がある。ケネス・ブラナーは、シェイクスピア役者として鍛え上げられた演技力で、彼の「名探偵」としての部分と、「人間」としての部分を、うまく混淆して説得力のある演技を開陳している。
映像化において、これだけポワロの「名探偵」としての苦悩を描いたケースも、これだけ「人間ポアロ」の内実を描いたケースも、なかなかないのではないか(デイヴィッド・スーシェ版にはいくつか似た趣向のエピソードがあったけど、今回のほうが僕は感銘をうけた)。
それだけで、僕としてはもう大満足だ。
映像としては、常に動きのある流麗なカメラワークが印象的だ。
どうしても、本格ミステリ映画は、固定カメラのスタティックな演出を選択することが多いが、本作では、とにかく視点を動かしまくることが常態化している。
冒頭の塹壕戦からハンディカムが激走し、激しく甘美なダンスシーンを経て、結婚パーティでもカメラは人々の間を縫ってせわしなく動き回る。エジプトでは俯瞰と仰角のショットの切り替えがじつにダイナミックだ。そのことでいっそう、周辺の事物の巨大さと雄大さが際立つ。船旅がメインになってからも、観光船内をカメラは縦横に走り回り、常に動的な雰囲気を絶やさない。
この「動」の撮影は、ポワロが「走れて撃てる名探偵」として描かれていることと、むろん無関係ではない。ブラナーは、ポワロものを従来のスタティックな本格ミステリの軛からはずして、ある種の「ヒーロー譚」として現代に再生させようとしているのだから。
本作の撮影にはアングルにも強いこだわりがあって、基本左右どちらかのサイドに斜め向きに人を置いてしゃべらせることが多いのだが、ここぞというシーンになると、ど真ん中にポアロを据えてシンメトリー構図を採用してくる。前作ラストの「岩窟の聖母風・最後の晩餐」シーンが、まさにこのシンメトリー演出の極北だったことを考えると、おそらくブラナーにとって、シンメトリーは強い「力」をもつ「特別」で「とっておき」の構図なのだろう。
総じて本作の体感時間が短く感じられるのは、ブラナーの巧みなカット割りと、飽きさせない移動カメラ&アングル切り替えのおかげだと思う。
というわけで、僕は概ね本作を堪能したのだが、もちろん不満がまったくないわけでもない。
有無を言わせぬ証拠がないのにみんな簡単に落ちすぎだというのはたしかに気になるが、より気になる点として、まあまあポリコレ汚染は甚だしいよね(笑)。
これは作り手の責任というより、現代映画界の「呪い」のようなものなので、致し方ないといえば、致し方ない。むしろ、黒人歌手とそのマネージャーを導入することで、「ブルース」という音楽要素が加味されているのはいいアイディアだ。また、別の重大なオリキャラを投入することで、意外な事件展開を用意しているのも、既読者でも楽しめる新要素としては悪くなかった。原作では若干冗長な窃盗事件に関する顛末を簡略化したのも、映像化としては英断だったと思う。
いちばん個人的にひっかかるのは、原作の「キモ」にあたる部分をあまり強調していない、というか、「武士の情け」みたいに敢えてそこをえぐらずに仕上げていることだが……それについては、この下にネタバレとして書いておく。
とはいえ総体的に見れば、実によくできていたし、役者陣もケネス・ブラナーはじめ、とても良い演技だったと思う。
まだオールスターキャストでできるポワロもの原作はいくつか残っているので、ぜひケネス・ブラナーには継続的にこのシリーズを撮って、ユスチノフ版を超えるくらい頑張ってほしいところだ。
(以下、ネタバレ)
僕は、『ナイルに死す』で最もキモとなるのは、「愛の逆転劇」の部分だと思っている。
すなわち、本作では「寝取った女」と「寝取られた女」の優劣が、ラストで逆転する。
そこが圧倒的にいやらしく、底意地が悪く、すなわちクリスティらしい。
さんざんマウントを獲って、相手をストーカー呼ばわりしながら、「親友」として気に掛けることで憐れみをも掛けていたエラそうな女が、実は最初からただの「カモ」で、食い物にされていて、見下されていて、ゴミのように殺されるだけの存在にすぎず、付きまとっている哀れで頭のおかしい女のほうが、実はすべてを支配し、操り、物語に君臨している。
冒頭のダンスのシーンだって、リネットは「親友から男を奪った」と考え、申し訳ないと思いながらも男をたぶらかす自らの魅力に至極ご満悦のはずだが、その実ほんとうは、単に「あてがわれている」だけのことだ。この話は、ジャクリーンの視点で見なおせば、リネットという存在をどこまでも徹底的に、容赦なく愚弄する作りになっている。
このえげつなさ、この悪意の濃さこそが、まさにクリスティの神髄なのだ。
僕は、リネットという高慢で、世間知らずで、ほんとうは複数の人間から猛烈に憎まれていた女を、もっと容赦なく、完膚なきまでに、叩きのめしてほしかった。そうすることで、『ナイル殺人事件』という物語の包含する「真の恐ろしさ」がいかんなく発揮されるからだ。
だが、ケネス・ブラナーは真相解明のあと、じつにあっさりとジャクリーンと情夫を死なせてしまう。
ある意味、それはケネス・ブラナーの「優しさ」なのだと思う。
ジャクリーンの悪を描き切らない優しさ。リネットを死してなお鞭打たない優しさ。
でも、せっかくこの素材で映画を作るなら、ジャクリーンとリネットの「マウントの逆転劇」をやらないのは、本格ミステリファンとしては、やはりもったいないと思うわけだ。
今晩は
初めましてでしょうか・・。
凄く濃密且つ、探偵小説と映画を愛する者にとっては唸らされるレビューだと思いました。
”「名探偵の推理がもたらす結果責任」の問題”について言及される件及び、
”映像としては、常に動きのある流麗なカメラワークが印象的だ。”
以下のコメントにも脱帽です。
これからもよろしくお願いします。
久方振りに、読み応えのあるレビューを有難うございました。では。
返信不要です。