「再生と自分自身の物語」種をまく人 k1412さんの映画レビュー(感想・評価)
再生と自分自身の物語
なんでも簡単に調べられ、多数派による正解(らしきもの)を与えられ、それで判ったような気持ちになる現代。これほどまでに不親切な表現は昨今なかなか見かけないなぁ~と言うのが僕が最初に思った感想です。それも扱っているテーマが「人はどうあるべきか」「生きるとは何を意味するのか」と言った普遍的、且つ宗教的価値感を持たない限り答えの出無いもの。白石一文なら作中で雄弁に語ってくれるでしょう。一方この映画の監督は黙っているように見えます。いやむしろ私たちといっしょに観ているのではないでしょうか。これ、皆どう思うんだろう…。そして自分はどう思い考えるんだろう…。
さて、映画の登場人物は平穏な日常の流れの中でごく自然に(!)追い込まれて行きます。「真摯であろう」「人間的であろう」とする心やさしい市井の人々が、究極下の己の選択に大きな苦しみを背負う事になります。これでもか、これでもかと。本質的に正解の無い答えの連続。これに観客は同じ人間として不安感や居心地の悪さを感じます。加えて全編に渡り全く説明的で無い展開。これにある人は意味不明と思い、ある人は苛立ちを超え憤りさえ感じるのではないでしょうか。それはこの映画が本気で自分自身と向き合った人でしか、価値を見出せない事を現しているからだと思います。誰でも自らの心の深淵を覗き込む事には苦痛と恐怖を伴う事が多いからです。
映画では理不尽な罪を背負わされた光雄が最も苦しいようにも思えます。しかし彼は人間が「起こしてしまったこと」に対し深い悲しみはあるが、誰よりも早く受け入れ弔いと祈りを捧げる事に邁進します。むしろ彼が心を痛めているのは、はからずも自らに罪を与えてしまった智恵であり裕太であり葉子なのです。光雄が思いついた行動は時系列で見舞金を渡す、石を積み一希を弔う、彼女を象徴する石を見つけ葉子に渡す、最後に一希の象徴としての向日葵の種を蒔く…と言った順番でしたでしょうか。彼は迷いなくひとつの信念に向かって行動することが出来るため救いがあるように感じました。一方で智恵、裕太、葉子は己の判断の上、生きていく上で拭い去れないほどの罪を背負っていきます。光雄はそれを感じ一希の為、そして家族の為に「一希が生きていた証」を残すため、ある種建設的な動きで種を植えていきます。それが智恵と裕太の希望の光となるのでしょうが、これがおいそれと「救い」になるとは私は言いきれません。ただこの映画と登場人物に何度も自らを重ねる事で、世界の見え方が昨日と少し変わるのではないか、そんな風に思いました。
早速のコメントありがとうございます。
私自身が観念的なものや感性で受け止めたことであっても何とか言葉にして表したい、人にも伝えたい、という欲求が強い人間なので、『本気で自分自身と向き合った人にしか見出せない価値』とか『全体像から浮かび上がる真実』ってどういうことだろう、と知りたくなってしまうのです。敢えて言葉にすることに必要性を感じない見方もあるということにまでは思いが至りませんでした。
気付かせていただき、感謝致します。
ただもっと大きな視点と言うか、ある種神話的な見方をしているのかな、とは思いました。私はひとりひとりを見つつ、ひとりひとりを凝視していないと言うか。リアルな視点からすると甘いのかもしれませんが、全体像から浮かび上がる真実のようなものに触れた気がした、と言ったところでしょうか。
琥珀さん、はじめまして。
コメントありがとうございます。
まず私は議論を前提としませんのでご了承下さい。ただ琥珀さんの見方も同意する部分はあります。児童虐待、子供の人権に深い関心と御意見をお持ちだからこそ、知恵の罪放置は許されない。知恵の未来についてかなり想像されていることからも考えへの強さが伺えます。確かに放置しているとも言えます。私自身も観念的な見方はしていると思います。
k1412さん、はじめまして。
自分と異なるご意見、興味深く拝読しました。
コメントさせていただこうとしたら、長文のせいか、うまくいかなかったので、自分のレビューに追記しました。
k1412さんのレビューに言及していることもあり、こちらで連絡させていただきます。