「私にとっては、とても不親切な映画でした。(追記あり)」種をまく人 琥珀さんの映画レビュー(感想・評価)
私にとっては、とても不親切な映画でした。(追記あり)
舞台挨拶で監督が仰ってました。
精神障害を抱えるゴッホが、もし、絵画という手段を持たない現代日本にいたら、ということを想像しながら書いた脚本だそうです。実際に画商の弟がいて二人のやり取りが残された書簡集を参考にしているとも。
その前提がない人間が見ても分かるように作ったのか、書簡集のどこいらあたりをキーと考えたのか、或いはヒントにした程度で大胆に改題、意訳しているのか。
進行役のジャーナリストの方もその辺のことを聞いてくれなかったので、振り返ってみて、あのシーンはそういうことなのか、みたいな後から理解が及ぶ場面が、少なくとも私には思い当たりませんでした。
一般的には、舞台挨拶があるとそれなりに作り手の思いが伝わってきて、映画そのものプラスαの印象となるはずなのに、プラスαがないまま、このレビューを書いてます。
精神障害で入院していた兄が退院して帰ってきたところから始まりますが、そういった方の不安や予後のあれこれについて何も知らない人間が見て、そういうものなのか、と分かるようには作られてはいません。また、映画における事件当事者の小学生の少女も事件後は終始下を向き、ほとんどセリフがない演出となっており、心理状態の機微や変化についての手掛かりも与えられません。もちろん、私の理解が及ばないだけかもしれませんが。
悪く言えば、とても不親切な映画。
文脈とか余白を自分で補うのが割と好きという方や、想像力に自信のある方には余韻の残る映画かもしれません。
個人的にとても気になったのは、映画の売り方としては、ポスターにも書いてある〝罪を犯した少女〟が中心で、その再生・リスタートの話だと思ってたのですが、舞台挨拶の雰囲気や発言からすると、ゴッホとヒマワリこそが、監督の描きたかったことで、少女の今後の立ち直りを支えるべき周囲の環境についてはほとんど絶望的なまま放置されており(唯一の救いは父親とのコミュニケーションはなんとか回復したこと)、子どもたちについての視点がかなり軽視されているように見えたことです。
※違っていたらすみません。私にはそう見えた、ということが前提で書いています。
監督が何を描くのかは勿論自由で、口出しするのはお門違いですが、もしあまり描く気のない部分を〝売り〟にしているのだとすれば、そこについてはかなり違和感がありました。
以下、追記(2019.12.3)
『知恵の罪』についてあまりにも丸投げ、というより放置されているので、自分なりの考察を追記します。
知恵の犯した罪とは?
映画の中では明確にされていませんでしたが、未成年としての責任能力の有無は無視し、動機という観点から考えると下記の三点が考えられます。
①過失致死(殺意はなく、支えきれず落としてしまった)
②殺人(瞬間的なものだとしても、嫉妬心や両親との関係性の中で生まれた明確な殺意あり)
③未必の故意(明確な殺意はないが、致命的なことになるかもしれない、との可能性の認識はありながら落としてみた)
いずれにしても、「自分のせいで妹を死なせてしまったという事実」と「精神障害のあるおじさんに罪を転嫁したこと」についての罪悪感が、これからの人生につきまとうことは間違いない。
自分なんか生きていく資格がないと自傷行為を繰り返すようになったり、一見健やかに成長したとしても、恋愛や結婚がリアルに感じられる年齢になった時に、自分の子どもをまた死なせてしまうかもしれない、という恐怖心が蘇ることもあると思います。
勿論、そこまで先のことを映画で描く必要はないですが、少なくともこれからの知恵のトラウマを抱えた人生、贖罪の気持ちを誰がどう受け止め、理解者として見守るのか。未来に向けた展望が、知恵個人にのしかかったまま、何ひとつ見えてこない。
まさか、自分の力で解決しなさい、ということではないと思うのですが。
個人的には、知恵の犯したことは③未必の故意によるものだと考えています。
嘘をつき続けることを母親が強要したことで損なわれた母娘の信頼関係、夫婦の実家同士の差別的見下しの混じった不信感。こんな下衆な環境で、知恵が真っ当な人間に育つためには、周囲の人間から影響されないような強靭な精神力が必要ではないか。
逆説的に言えば、服役中のおじを除き、周囲の人間を誰一人信用しないところから始めないと真っ当な人間にはなれない。
知恵のこれからという目線でこの映画を見ると、トラウマを抱えた小学生の子どもが自力でなんとかしていくしかないような絶望的な状況しか描かれていない底無しの恐怖映画のようにも見えてしまう。
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自分と異なる見方のレビューについて、とても興味深く拝読しました。そのうえで感じたことを追記させていただきます(2019.12.17)。
k1412さんのおっしゃる、本気で自分自身と向き合った人、というのは現実世界に留まらず、哲学的、或いは観念的な世界にまで分け入って自身の心のありようや生き方についての思索を深めた人、というような意味合いでしょうか。
だとすれば、この映画は一見リアルな世界でリアルに悲惨な事故もしくは事件が起き、リアルに知恵のトラウマを抱えたままのこれからの人生については救いようがない絶望的な状況で終わらせていましたが、それらはあくまでも観念的な世界での光雄の寓話を際立たせるための道具立てであり、現実的な世界での知恵の先行きについて想像力を働かせるようなことは筋が違う。そんな解釈も成り立つということになるのでしょうか。その場合、警察の介入や真相究明についてのぞんざいな扱いも観念世界ではさして意味がないので、色々な疑問符についてもさほど気にする必要はない。
確かにそういう見方(リアリティではなく観念や感性に訴える)でこの映画を見れば、光雄の行動に現実世界を超越したある種の心のあり方が見えなくもないのかもしれません。
ただし、もしそのような観念的なものが主体の映画なのだとしたら、一見重いテーマに見せながら結果的に無意味にしか思えない『子どもの罪』など描くべきではなかったのではないか、という思いはどうしても拭えません。
児童虐待や子どもの人権に関心のある者(私もそのひとりです)からみたら、大人たちの身勝手な振る舞いは光雄の無垢さを浮かび上らせるためだけで、知恵の存在は映像美や悲劇性のために使われたとしか見えません。
過失にせよ、殺意があったにせよ、光雄の行動が知恵に精神的な十字架を背負わせることに変わりはないわけで、優しそうに見えて実は知恵の法的な罪を先送りさせているだけ。かえって数年後に、もっと大きな精神的ダメージを負わせることになるかもしれないという残酷さも備えていますが、観念的な快復やある種の解脱のようなものへの道筋すら描けていません。
終始下を向き喋らないところから、折角話したところを母親が台無しに、しかもその後母親が伯父さんを通報したと思われる様な描写もありました。
ここで父親に警察が匂わせた目撃証言に関することもあやふやにされた気もしてしまいました。
そこから話が展開すればまだしも、事件に関しては何もありませんでしたし、琥珀さんのおっしゃる通り知恵はトラウマを抱えるだけ。
その中でのあの父親とのラストは何を投げられているのか理解できませんでした。