ルディ・レイ・ムーアのレビュー・感想・評価
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日本の『綾小○きみま○』ダネ。
下ネタと言うよりも、日本人の『綾小○きみま○』ダネ。こんなので笑えるなんて、日本人の『PLAN75』以上の老人だけかと思っていた。もっとも、1975年とすれば、この当時、27歳位がこのスタンド・アップ・コメディーを受けている。つまり、現在の75歳は、こんなギャグで育ち、個性を作ったって事だ。綾○路きみま○がうけるのはそう言うギャグだ。
1975年と言えば、ベトナム戦争が終わったアメリカンカウターカルチャーの残党って事だ。勿論、私はこの人物を知らない。また、映画を見ていると、途中から主人公がエディー・マーフィーになっている。あまり、エディー・マーフィーを見ないので、よくは知らないが。
このギャグで本当に笑える?笑える?
クイーンビーと歌うデュエットは、完璧に『カントリー・アンド・ウェスタン』になっている。50年近く経って、黒人文化の根源と言うような人物なのだろうけ?少なくとも私は全く知らない。
『アフリカン・カンフー・ナチス』見たいな映画なんだろうな。ネットを見ると2が上映されるようだ。
あと、一時間だけど『ニュー・シネマ・パラダイス』みたいに見れば、少し面白いのかなぁ。
『下品なくだらない作品だけど、客はそれを見たがっている』そういう解釈でも良いとは思うが、アフリカンカンフーナチスを見て、2は見たいとは思えない。
笑える?本当に笑える?
『モーニング・アフター』懐かしい。パメラ・スー・マーティンをモーリン・マクガバンだと思っていた。
ルディ・レイ・ムーアとエディ・マーフィーとが重なり合って、不思議な感動に行き着く。
この映画を見て「エド・ウッド」や「ディザスター・アーティスト」あたりを連想するのは極めて当然のことだと思う。内容や展開を見れば「ディザスター・アーティスト」そのものというような感じで、あまりにも展開が近いので目当たらしさではかなり劣る部分ではある。
ルディ・レイ・ムーアという男の伝記映画でありながら、他の伝記映画と違って感じるのは、ムーアとそれを演じているエディ・マーフィーの間に強くオーバーラップする部分があることだと思う。この映画に描かれるムーアの物語がそのままマーフィーのキャリアと重なってくるというか、逆もまた然りで物語の方にマーフィーの半生が重なって来るというか。もうだんだんとマーフィーの伝記映画なのではと思うくらいだった。紆余曲折しながら上り詰めていくルディの物語に、浮き沈みの激しいマーフィーの生き様が重なって見えるごとに、映画に深みと哀愁が増すような感じがあった。そう。マーフィーが演じることでなんだか哀愁が漂うのだ。長いキャリアがありつつも、好調と低調を繰り返し、最近ではもうすっかり過去の人のようになっていたマーフィーがこの役を演じることの強い意味。同じ黒人のコメディアンだからと、クリス・ロックやケヴィン・ハートがこの役を演じたら映画の感じ方は変わっただろうし、それは普通の伝記映画だったかもしれないと思う。エディ・マーフィーのキャリアと人生をすべて飲み込んだその上でこの映画がなんだか心に響いた。
主演だけでなくプロデューサーまでも兼任したマーフィーのことだから、自分の芸の根底にムーアが存在していることを最大限のリスペクトを込めて作品にしたのかな?なんて勝手に思ったりもした。作品を観ていてもマーフィーが無理してムーアを演じているようには微塵も思えず、まるでムーアとマーフィーが同一人物として映画の中に存在しているような感覚だった。それは「ディザスター・アーティスト」でジェームズ・フランコがトミー・ウィゾーを半ば「いじる」ようにして演じたのとはまたベクトルの違うアプローチで、どちらが優れているという意味ではなくその違いがなんだか面白かった。
映画の中で、ムーアは常に前向きで能動的で人を引き寄せるパワーがあって、仲間で映画製作している様子なんか「青春」なんて青臭い言葉を思い浮かべてしまったくらいだった。いい年して「青春」しちゃってる男を、忘れかけていた昔のコメディアンが演じている。しかもすごく楽しそうに演じている。そう、その姿もまた「青春」みたいだと思った。エディ・マーフィーが素直に一番やりたいことをこの映画を通じてやっている、そして輝いている。そんな姿を見てなんだか胸が熱くなった。私の思い過ごしや考え過ぎ、だとしても、私はこの映画とエディ・マーフィーをそんな風に解釈して愛してあげたいと思った。
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