「「野生の思考」と「シン・ウルトラマン」」シン・ウルトラマン しろくまさんの映画レビュー(感想・評価)
「野生の思考」と「シン・ウルトラマン」
人間、つまり神永(斎藤工)の姿に“なった”ウルトラマンは、大量の本を読み始める。“外星人”である彼は、地球のこと、人間のことを学ぶ必要があるからだ。
彼が床に座り込んで本を読むシーンがある。書名が映る。レヴィ=ストロースの「野生の思考」である。
「野生の思考」の出版は1962年。植民地時代を過ぎ戦後になっても、西洋文明が優れていて、アジアやアフリカなどの発展途上国を“未開国”と見る文明史観がヨーロッパでは広く一般的であった。
つまり、西洋社会の文明や文化は「進んでいる」、未開社会は「劣っている」、という考え方だ。
だが本来、文明や文化に「優劣」はない。そこにあるのは「違い」だけである。こうした考えを唱えたのが「野生の思考」である。
(当時の西洋社会を基準にすれば)“未開”社会にはないものが多い。だが、実はそこには「違うもの」があるだけなのだ。
その土地の人たちは、そこにあるものを活かして暮らしている。ありあわせの道具や材料を使って必要なものを作り出す(ブリコラージュ)。レヴィ=ストロースはこれを“野生の思考”と呼んだ。
さらに些細に見れば、そこにあるもの、社会的な現象や事物には構造がある。このように唱えたレヴィ=ストロースの考えは「構造主義」と呼ばれた。
当時、「構造主義」と対置すると考えられた思想は、サルトルが唱えた「実存主義」だった。
実存主義は、人間一人ひとりの存在を起点にして社会を捉えた。人間たちは日々進歩している。その先頭を行くのが西洋社会だと考え、これを敷衍すれば西洋社会は優れ、西洋社会ほど進歩していない未開社会は、それより劣った存在ということになる。
人間の姿をしたウルトラマンとメフィラス(山本耕史)、2人の外星人が会話をするシーンが出色の出来だ。
2人とも姿は人間。公園のブランコに乗って話す、居酒屋のカウンターで話す。昭和のテレビドラマかよ?とツッコミいれたくなるほど、ありふれたシチュエーション。だが、2人がまとう雰囲気は恐ろしいまでの違和感に満ちている。この演技、なかなか出来るものではない。
メフィラスの人間(というより日本文化)に対する学習はかなり高度だ。上記、公園から居酒屋に場所を移動しようというときメフィラスは「河岸(かし)を変えよう」という言葉を使う。そんな表現、どこで覚えたのだメフィラスよ。メフィラスは、浅見(長澤まさみ)の匂いを手がかりに追跡したウルトラマンに対し「変態」とまで言う。この行為を「変態」と認識するのは、かなり深い文化理解を要する。メフィラスの知性、学習能力の高さに驚く。
だがメフィラスは、人間を見下し、人間を支配しようとしている。彼が人間の文化を学んだのは、人間と友好関係を結ぶためでなく、侵略のためでしかない。人間の目を欺くために、人間の理解者のフリをすることに活かされるのだ。
だがウルトラマンは違う。ウルトラマンは、ことさらに自分を「人間の理解者」として見せようとはしない。むしろ、一定の距離感を保っているように見える。しかし彼は、人間という存在を、そのまま尊重しようとしている。ウルトラマンも、おそらくメフィラスと同等か、それ以上の知性や科学力を有しているであろうにも関わらず、人間を見下そうとはしていない。
この、ウルトラマンの態度は、まさしく「野生の思考」そのものだ。
広い宇宙の中に、地球という、ウルトラマンやメフィラスから見たら発展途上の星がある。地球は、先進文明である外星人からの侵略という脅威にさらされている。
だが、地球は決して“未開社会”ではない。そこには、独自の文化や文明がある。メフィラスから見ればそれが“野蛮”だとしても。
なぜか禍威獣は日本にだけ出現する。その厄災は、いちいち国際社会の中で物議を呼ぶ。
地球は、決して一枚板ではなく、地球の中には日本以外の国も存在し、国際社会における交渉や駆け引きがある。
日本の中もそうで、禍威獣に立ち向かう禍特対の対応は複数の役所や政治家たちとの折衝や根回しの上でおこなわれる。
宇宙の中の地球。地球の中の日本。日本の中の禍特対。このように、本作の舞台には何重もの構造があり、それぞれの要素には関係がある。ここにもまた、構造主義的なアプローチが見られる。
さらに書けば、本作のベースとなったのはテレビの「ウルトラマン」と「ウルトラQ」の一部だが、それらの作品の脚本を担ったメンバーには沖縄出身の金城哲夫、上原正三がいた。特に金城はテレビ「ウルトラマン」の企画も担当し(上原は金城に誘われ、金城より遅れて円谷プロダクションに入社した)、本作の原案となっているザラブ星人、メフィラス星人、ゼットンの登場回の脚本を執筆をしている。
金城も上原も、沖縄人としてのアイデンティティを脚本に生かしていた(ウルトラマンシリーズ最高傑作の1つとも言われる上原脚本の「帰ってきたウルトラマン」第33話「怪獣使いと少年」に結実。なお、金城は早くに円谷プロを退社して沖縄に帰った)。
江戸時代までは薩摩藩に、戦後はアメリカに占領され、虐げられた沖縄を、地球侵略や、最終的には退治されてしまう怪獣や星人に投影したのである。
テレビ版の原案にまで遡れば、日本の中にある沖縄という視座もまた、構造主義的に捉えることができるだろう。
かつてのテレビシリーズの「ウルトラマン」は、原則1話完結。毎回、怪獣や外星人が現れ、ウルトラマンが退治する、その繰り返しだった。
そうしたエピソードの繰り返しを俯瞰したとき、どのような風景が表れるか。そう、もともとのテレビシリーズ「ウルトラマン」を構造主義的に捉え直し、表現したのが「シン・ウルトラマン」なのではないか。
ラスト、ウルトラマンはゼットンに敗れ、地球は滅亡の淵に立たされる。
テレビシリーズ最終回でもゼットンはウルトラマンを倒した。その強さに恐怖した記憶が蘇る。そして本作でもゼットンは強い。テレビのゼットンと同じ、あの「ピポポポポ…ゼットーン」という鳴き声(?)に震えた。
ちなみに、ゼットンという名前は最終回だからアルファベットの最後の「ゼット」と五十音の最後の「ン」から来ている。これは余談。
ここで奮起したのは人間だ(テレビシリーズでも、ゼットンを倒したのは科特隊の開発したペンシルロケットだったことを思い出す)。
Web会議で世界中の知恵を集め、人間はゼットンを倒す僅かな可能性に賭けて動き出すのだ。
メフィラスやウルトラマンら外星人から見れば、地球のテクノロジーは遅れているかもしれない。
だが、そこにあるもので何とかする。ブリコラージュ、野生の思考で地球は危機を脱する。
なぜウルトラマンは、そこまで人間を好きになったのか?地球滅亡の危機に、ことさらに強調される日々ある当たり前の暮らしの尊さ。
このあたり、脚本を急ぎ過ぎのように感じる。
禍特対の隊員の日時や家族すら描かれないからねえ。
ウルトラマンの出現シーン、ここぞというときはお馴染みのパースのついたグーが前のポーズ。まさに「来たぞ、われらのウルトラマン!」でグッときた。
テレビシリーズにはなかった行政組織とのあれこれは、かなり盛り込まれている。これはエヴァ、「シン・ゴジラ」からの流れ。
文字通り「国民的作品」に新解釈を加えつつも、高品質なエンタメ作品に“換装”した。アップデートというよりマルチバースとして楽しみたい。
pipiさん
読んでくださり、ありがとうございました!
神永はたくさんの本を読んでいました。
中でも、なぜ「野生の思考」を読むシーンを、しかも書名が読めるように映したのか?…という疑問から妄想しました。
楽しんでいただけたら、よかったです!
CBさん
長文を読んでいただき、また、コメントもいただきまして、ありがとうございます!
あと、忘れちゃいけないジャミラ(「故郷は地球」)。
正義が正義を振り回して、力で勝つことを無条件に良しとはしない。そういうTVシリーズのウルトラマンのメッセージも、この映画は引き継いでくれていたと思ってます。
> 文明や文化に「優劣」はない。そこにあるのは「違い」だけである。こうした考えを唱えたのが「野生の思考」
うわ、深いわあ。そしてめちゃくちゃ勉強になりました。ありがとうございます。上の考え方は、差別を生じにくい面で、非常に好感持てました。まさか、ウルトラマンでこんな学習ができるとは。
> 脚本を担ったメンバーには沖縄出身の金城哲夫、上原正三がいた
シリーズに時折現れる「正義は勝つ、でよいのか?その背後で差別があり弱者が淘汰されているのではないのか?」という金城さん、上原さんの思いが込められた回の脚本は、どれも印象に残ります。子供の頃はなんだかわからないけれど引っかかり、大人になって、ああ、いい脚本だなあと気づく名作たち。「恐怖のルート87」(ヒドラ)、「まぼろしの雪山」(ウー)、「ノンマルトの使者」(ガイロス)、そしてもうひとつ忘れられないのは帰ってきたウルトラマンの「怪獣使いと少年」(ムルチ)。実相寺監督・佐々木組の「恐怖の宇宙線」(ガヴァドン)、「怪獣墓場」(シーボーズ)も好きですが、よくぞ、怪獣番組の中で、俺の心に「これでホントにいいのだろうか?」という気持ちがほんのわずかにでも残る作品を作ってくれた、と感謝感謝です!!