「ピンチと肉弾戦成分薄めの「半神」の如きウルトラマンは、庵野の自己投影なのか?」シン・ウルトラマン じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
ピンチと肉弾戦成分薄めの「半神」の如きウルトラマンは、庵野の自己投影なのか?
庵野/樋口の特撮シリーズってのは、正直けっこう「ずるい」(笑)作りの客寄せホイホイだ。
現代に生きるオタクでおそらく一番偉い人が、日本を代表する特撮コンテンツを題材に、昔から脳内で培ってきた「僕の考えた最強の●●」を、満を持して発表します、と訊いてスルーできる人間は少ない。まして、シン・エヴァを完結させた庵野がこれから手掛ける仕事には、彼の人生の「総まとめ感」が漂っている。
要するに、このシリーズは、面白いとか面白くないとかの次元を超えて、「まずは観ておかなければならない」マスト感が只事ではない。
封切り前から、その内容いかんにかかわらず、この映画は「勝つ」ことを運命づけられているのだ。
逆にいえば、単なる個人的な「評論行為」を「エンタメ」にまで昇華できる庵野(および実作代行者の樋口)という人は、やはり凄いと思う。
もちろん、「庵野にとっての究極のウルトラマン」の披露は、幼少時(もしくは青春時代)にウルトラマンに接し、それに耽溺した多くの人間にとっての「ウルトラマン」の私的なイデアとのぶつかり合いになる。
誰しもが、心の奥底に持っている、自分だけの「ウルトラマン」。庵野の研究発表を前にすれば、観る者は必然的に「彼のウルトラマン」と「僕のウルトラマン」を突き合わせざるを得ない。「シン・シリーズ」とは、そういう「答え合わせ」の要素を生得的に宿している。
結論から言えば、庵野(と樋口)の呈示した「ウルトラマン」は、僕が私的に思っていた「ウルトラマン」よりも、ずいぶんと「潔癖」で「健康的」で「概念的」な、「健全」なウルトラマンだった。より正確に言えば、「人間くささ」よりは「半神性」を、より前面に押し出した「英雄的な」ウルトラマンだった。
もちろん、次々と襲来する使徒1号、使徒2号みたいな「禍威獣」と、奇妙な起動とぎこちない動きを見せつつ、ときどき「色の変わる」、得体の知れないウルトラマンというのが、びっくりするほどにそのまんま『エヴァ』みたいだというのは、僕も当然思った。ああ、『エヴァ』ってのはロボットアニメだったからその印象が薄いけど、もともとは大学時代に『帰ってきたウルトラマン』の同人映画を自作自演で創っていた庵野からすれば、まるっと「ウルトラマン」オマージュそのものだったんだなあ、と。
だが、『エヴァ』と『ウルトラマン』の比較論に関しては、僕なんかより詳しい『エヴァ』ファンの方がたくさんいらっしゃるだろうし、そういった皆さんにぜひおまかせしたい。
僕がここで触れておきたいのは、僕の、個人的な「ウルトラマン」観だ。
ちょっと気持ちの悪い話かもしれないので、あらかじめお詫びしておく。
幼少時の僕にとって、ウルトラマンは、なぜか性的な興奮と直結していた。
性的には未分化だが性欲はすでに充分に強かった4歳~5歳児の僕は、タロウやエースがボッコボコにされるたびに、不思議なことにギンギンに怒張していた。ヒーローが痛めつけられることに猛烈に興奮していたのだ。たまにウルトラ兄弟が殉職すると、それはもう強烈なカタルシスに襲われた。逆に、ヒーローが順当に勝つと退屈で仕方がなかった。
小学校にあがると、僕の性的興奮の対象は『大江戸捜査網』の梶芽衣子や『江戸を斬る』の松坂慶子のヒロピンに移行することになるが、それでも僕にとってウルトラマンは原初的なエロスと直結したキャラクターであることに変わりはない。
その理由はおそらくはっきりしている。
日本の特撮ヒーローのなかでも、ウルトラマンほどに「ピンチ」を際立たせて作られたヒーローはいなかったからだ。
圧倒的なスペックと、それに反しての「活動時間制限」と、その象徴としての「カラータイマー」。
ショッカーのような雑魚キャラとの殺陣が存在しない、裸と獣の絡まり合う一対一の肉弾戦で、出だしは優勢だが、必ず中盤で「ピンチ」が訪れる。さらにはタイムアップが迫り、ヒーローにとってはぎりぎりの闘いが繰り広げられる。そこで、必殺技が出て大逆転勝利。ここまでがひとセット。
ウルトラマンにおける子供たちの「はらはらドキドキ」を喚起する中核は、無敵の「強さ」というよりは、むしろベイビーフェイス的な「弱さ」だったのではないか。強すぎる「なろう」的な「マシズム」よりは、弱さを併せ持つ「マゾヒズム」が少年の心を揺らしていたのではないか。その意味では、等身大ヒーロー系でいえば、「イナズマン」や「キカイダー」に近い、「やられ方にそそられる」要素が強かったのではないか。そこが、僕の内なる「ヒロピン」属性に響いたのではないか。
もう少し、僕の個人的性癖より普遍的な話に敷衍すると、ウルトラマンは、間違いなく「プロレス」を祖型としている。
これは、東映系のライダーや戦隊モノが「時代劇」を祖型としているのとは、とても対照的だ(あっちは、雑魚戦闘員による「殺陣」をこなしてから、メイン武者の一騎打ちがあって、成敗という典型的な「チャンバラ」の構図を援用している)。
そして、プロレスのもたらす熱狂は、そもそもそのホモソーシャルな外見につい騙されがちだが、実はセックスとのアナロジーによって説明され得る、と僕は常々考えている。要するに、裸どうしの人間がくんずほぐれつして、最初は軽いジャブ(前戯)から入って、しだいに大技の応酬になり、お互いがくたくたになってきたところで「フィニッシュ」して大層気持ちいい、という構造上のアナロジーだ。この興奮を喚起する物語構造は、いわゆる他の「格闘技」のもたらす興奮とは大きく異なっている。プロレスだけが、セックスのまねびとしての(ちょうど性的に無毒化されたワクチンのような)擬似興奮作用を有している。
で、ウルトラマンが「プロレス」を祖型とする以上、ヒーローと怪獣の息を詰めたような(あたりに破壊の限りをもたらす規模の)究極の「肉弾戦」もまた、セックスのアナロジーとしての解釈が可能だ、というのが、つまるところ僕の「ウルトラマン」観だ。
といった話を5歳くらい年上の会社のSFマニアの先輩にすると、「それは君がタロウやエースの再放送をメインで観ていたからそう思うのだ」「ウルトラマンがボコボコにされて特訓して鍛え直したりする流れは新マン以降の付け加えだ」「最初のウルトラマンはもっと『強い』キャラクターだったはずだ」などと、いろいろ諭されてしまったんだが(笑)。
で、この長い前置きを前提に、『シン・ウルトラマン』を観てみると、少なくともここでのウルトラマンが、そういった「ピンチで」「やられる」「肉弾戦の」「プロレス的な」一連の方向性とは、ほぼ対極に位置する存在であることが痛感させられる。
要するに、庵野(と樋口)は僕が幼少時に受容していたウルトラマンの「らしさ」を、ほぼ完全に「スルー」した形で、自らのウルトラマン像を再構築しているのだ。
本作のウルトラマンには、ピンチらしいピンチがない。
敵はドリル怪獣ガボラを筆頭にかなり強い印象を与えるが、そう苦戦しているという感じもしない。
結構な余力を残して、相手を制圧している。
何より、このウルトラマンにはカラータイマーがない。
すなわち、時間制限という最大の「弱点」が克服されている。
正確には、消耗が激しく活動限界があるという話はきちんと作中で成されるのだが、それをカラータイマーという形で「誇示」し、第三者に「見える化」することを敢えて辞めている。
庵野/樋口が描こうとするウルトラマンは、もっと崇高で、もっと半神的な存在だ。
地面に這いつくばりながら、怪獣とのプロレスショーを人間に見せてくれる泥臭い一面より、「人間より圧倒的に高度な文明からやってきた絶対的上位者」としての一面の方を、常に強調して作られている。
『涼宮ハルヒの憂鬱』の長門のように、辞書をぺらりぺらりと読み続けるウルトラマン。
地球人の流儀を「実に面白い」とか、おおよそ上からの外星人目線で評価するウルトラマン。
ザラブやメフィラスと、下等な人類の生殺与奪をほぼ握る「神」の目線で、人類の未来についてディスカッションするウルトラマン。
本作のウルトラマンはあくまで、「外星人」であり、「上位者」であり、ほぼほぼ神様に近い存在である。そのぎこちなさや、得体の知れなさも含めて、「戦闘ヒーロー」というよりは、「友好的宇宙人」の側面が強調されている。
ラストのゼットン戦にしても、同身長の怪獣に惨殺される元版の衝撃と比べれば、横スクロールシューティングゲーのボスキャラみたいな巨大要塞に特攻して墜落する流れは、「痛みを伴わず」「なぶり殺しの怖さがなく」「そもそも殺されていない」。
要するに、このウルトラマンには、生臭さがないのだ。
肩で息をしながら、ボロボロになって闘って、痛みの実感を伝えてくるよりは、
とても、強くて、正しくて、でも無機的で、得体の知れない、知的で健全な存在。
なんだろう? こういう言い方をすると語弊があるかもしれないが、「アスペルガーの神様」っていうのかなあ。
アスペっぽい挙動がマイナス査定されずに、逆に人間を超越する存在の証として前向きに評価されている幸せな世界軸で、逆に「人間を愛してる」とか言っちゃってみせる偉大な存在というか。
もしかすると、庵野は、ウルトラマンという「人と異なる存在」に、「オタク」というアウトサイダーとして生きる自らを仮託しているのかもしれない。
そして、なぜ自分が人と異なるかといえば、それは「人より自分が高次元の存在だから」と、その全てを肯定しちゃいたいという庵野の内的欲求がおのずと現れた結果なのかもしれない。
自分のウルトラマンと庵野のウルトラマンの「ズレ」は当然興味深かったが、「ズレ」ているがゆえにハマり切れなかったのも確かで、その辺が星評価にもつながっている。
さて、中盤でどうでもいいことを書きすぎて、紙幅が尽きてしまった(笑)。
1点だけ、冒頭あたりの長澤まさみの撮り方が窃視的って意見があるみたいだけど、むしろこれって、ダーレン・アロノフスキーが『レスラー』とか『ブラック・スワン』でやってた「尾行撮り」だよね。てか、異常に量の多いカット数とか、窮屈そうなドアップの連続にもアロノフスキーのヒップホップモンタージュっぽい感じがすげえ出てる気がするんだけど、影響関係とか、どうなんだろう。
全体的に、長澤まさみに対してセクハラ的かと言われれば、まあそれはそうなのかもしれないが、最初から言っているとおり、特撮やアニメというのは、性的に未分化な幼児にとっての原初的な性志向と激しく密接に結びついたジャンルであることは間違いないわけで、特撮オマージュで作られた特撮にセクシャルな要素が介入してくるのは、むしろ「当たり前」のことである。
そのセクシャルな内容が、大人の仕事のできる美女(庵野は怒るだろうが、安野モヨコもしくは、安野モヨコの描いた「働きマン」のような女性)を性的対象とした、女体の巨大化だったり、匂いフェチだったり、下からの仰視アングルだったりというのは、むしろ健全すぎて、本当にびっくりするくらいだ(笑)。
少なくとも、少女性や処女性に縛られつづける宮崎駿&新海誠や、ケモ耳フレンズの細田守よりは、よほど「健やかな」フェティシズムだと僕なんかは思うのだが。
追記:この感想を書いてから5日後、売り切れだったパンフの再入荷分があったので買ってきた。
「ネタバレ禁止」との紙帯が巻いてある。外してざっと読んでみた。
まさかの……「庵野」成分ゼロ!
インタビューがないどころか、彼のスタッフ紹介すらどこにもない!
てか、庵野に触れた頁自体、1頁もない! 鷲巣さんや米津くんですら、1頁もあるのに??
「庵野の不在」が帯でバレ禁止にされてる「ネタ」ってオチか??
どうやら、別途販売されている『デザインワークス』のほうに、庵野成分はすべて分けてあるらしいのだが、客にだまってそんなことするか?
これってさすがに詐欺なんじゃないだろうか……「これは樋口の映画」ってことにしたいっていう庵野の意思表示なのかしら。うーむ。なんか釈然としないぜ。
pipi様、ありがとうございます! まさか異性の方にこの内容で共感いただけるとは思いませんでした(笑)。他にもいくつも「共感した」をいただき嬉しいかぎりです。
野球十兵衛様、最近までここに自分で書きこめることを知りませんで失礼しました。ああ、同志よ!!
素晴らしい考察、一つ一つ頷きながら拝読させて頂きました。
「心の奥底に持っている自分だけのウルトラマンの突き合わせ」
実に納得です。
また未分化であると言われる幼児期の「目覚め」についても大変興味深いお話です。
私は幼児期、ガッツ星人やナックル星人、エースキラーなどの回が非常に好きで何かゾクゾクするような不思議な感覚に襲われたものでした。
両親、とりわけ母は過度に潔癖なタイプでしたので身の回りにエロスを意識させるような刺激は視覚からも聴覚からも一切なく、健全な純粋培養空間で育ちましたので、生後の後天的学習で身についた「感覚」ではない事は確かです。
小学校高学年くらいの思春期に、特撮作品等で「自分が特別な感覚を抱く謎の回」について考えてみました。そして
「自分自身、可能な限り努力して強くありたいと思うが、そんな自分を組み伏せ屈服させてくれる相手を待ち望んでいるのではないか?」
との結論に至りました。
「バラ撒く性」の男性に対して「優秀な遺伝子を1つだけ選ぶ性」という、卵子のもつ宿命が遺伝子レベルで嗜好に作用するのかもしれませんね。
子供向けヒーロー作品というのは、ご指摘の通り「無毒化されたワクチン」の役割を果たすべきであり、ここにセクハラだなんだと不自然な介入をしてしまうと「過度に潔癖で異性交際出来ない若者」や「抑圧の発露が猟奇的犯罪行動に向かう者」などを生み出しかねないと危惧する次第です。
パンフ、そうなのですね!
この後、買ってみようかな?と迷っていたので助かりました!絶対買いません(笑)情報ありがとうございました。
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それ、めちゃくちゃよくわかります。
夕暮れの中でセブンが十字架で晒し者にされちゃうシーンなんて、フル〇起物でしたよね。
なので、今作のカラータイマーの無いウルトラマンはソレジャナイ!感がとても強かったです。