愛の小さな歴史 誰でもない恋人たちの風景 vol.1のレビュー・感想・評価
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「浜辺」=ユリの行き場のない気持ち
毎日、憂鬱を抱えながら生きるユリは、古本屋の店主のトモの元で働いていました。ユリの心の支えは花や草木です。対するトモは前妻に先立たれ、悲しみにくれていました。二人は夫婦関係にあるが、その間に明確な愛は存在していません。
トモは前妻のことが忘れられず、店の隅に亡き元妻の写真を眺めては、毎日思い出していました。
ある日、トモの小さい頃からの知り合いのリュウタが店を訪れます。父の遺品の本を買い取りに来てほしいと依頼をしに来たのです。トモの視力は僅かしかなく人の顔を遠くからでは認識できないほどのものでした。
後日、トモとユリはリュウタの父の家に本を見に行きます。ユリはそこで一冊の本に目が止まります。それはリュウタの父が死ぬ直前に読んでいた詩集でした。
リュウタの父が最後に読んでいた詩の内容とは「我が願いは君の心を開くこと・・」から始まる1節でした。
この詩集との出会いが、ユリとリュウタの距離を近づけることになります。それと同時に、ユリがトモの元を離れるきっかけにものなります・・
一冊の本が人と人の関係を変えていきます。人の出会いとは不思議なものだなとつくづく思いました。
「古本屋」は「浜辺」みたいでどこからともなくなくいろいろなものが流れ着く場所。その場所を「今の自分のようだ」と切ない心境を重ねるユリ。「古本」=「行き場のない自分の気持ち」と表現しているところがなんとも切ないです。
そんな「行き場のない気持ち」を抱えるユリは、心がとても繊細になっています。
だからこそ余計に、リュウタの父が残した詩集のフレーズや目が僅かしか見えないリュウタの気持ちが、自分を慰めてくれると思ったのでしょうか。
またユリは悲しみを抱えながら、草木や花びらみたいにそっと触れ、愛してくれる人を心のどこかで探していたのだと思います。
その存在がユリにとっては、リュウタであると強く信じられたのでしょう。だからユリは、浜辺(古本屋)に漂うことから、陸に上がって自分の足で歩くことを決意できたのだと思いました。
ミクロな愛の、そして再生の物語
偶然にも2日前に観た「夕陽のあと」と同じ越川道夫監督の作品だったがテイストはまったく違った。
これは深い悲しみを抱えて生きてきた主人公ユリ24歳(瀬戸かほ)の再生の物語だった。
死んでもいいと思ったときに出会ったひとまわり年上の夫(宇野祥平)。ユリに愛はなかった。
夫の幼なじみ(深水元基)と出会い、ユリは恋をした。お互いに惹かれあい、求めあった。
悪いこと沢山あったんだろうなあ。でも生きてりゃいいことがあるかもしれない。
三人とも身勝手だが、それでいいんじゃないかなあ。生き続けられるのなら。
上映前に越川道夫監督と瀬戸かほさんの舞台挨拶があった。時間は限られていたが、十分映画愛を受けとった。
『我が願いは君に心を開くこと』
間違っているかも知れない。何回も作品の中で主人公や後輩の男が諳んじていたり読んでいたりしているのだが、この詩文がゲーテの“西東詩集”に登場しているのか、それとも今作品の参考文献の中に記載されているのか、とにかく遺品である文庫本が死んだまま、血と体液の汚濁水が塗れている状態で手に持たれているという設定なので、確認が取れなかった。パンフには解説が記載されているかも知れないので、ご存じの方はご教示願いたい。多分、あの数センテンスの文章が今作品の最も重要なファクターである筈だから。
ストーリーとしてはそれ程難しくはない。古本屋の亭主の後妻に収まった主人公の女が、しかしその夫婦生活に馴染めず心を閉ざしている。ハッキリとは明示していないが、亭主のどこか独善的思考、デリカシーの欠如、そして夭逝した前妻への思慕が原因なのであろう。そんなまだ24歳の年齢にして現実感が浮遊している状態で暮らしている女が、亭主の小さい頃の年下の幼馴染みと知り合う。死んだ自分の父親の遺品である沢山の本を処分する為だったのだが、いわゆる孤独死で亡くなった父の最後の読本だった内容に酷く心を惹かれ、又、その詩人である父の繊細な言葉の取捨選択さに、益々心の渇きを潤してくれる。それは亭主のがさつさ(表面上は優しいが裏に潜む非礼さ)に嫌気が差していることに無自覚な女が始めて自分の生まれた意味を見出す時だったかも知れない。それは父親への敬意を蔑ろにしていた男も同じであり、父親の若い愛人からの生前の暮らしを聞かされて始めて一人の人間としての父親を認めることになる。そんな共有した気持が邂逅し、二人は惹かれ遭ってしまう。そして、今の安定した暮らしを捨てて、始めて共生する道を、近い将来盲目となる男と選ぶことになるのである。一方亭主も又、実は女を本当に愛していないことに気付き、以前女のヌードが掲載されていた雑誌きっかけでの薄い情を自覚する。それは、ラスト近くの先妻の幻が生前は一切歌声を披露したことがないのに、鼻歌が聞こえてきたことで心の気づきが表現される。それはこの古本店そのものが嘗て、そして今も愛してる先妻そのものだったということに。
映像、効果、そしてストーリーそのものが文学性を帯びていて、シンプルだけど大変叙情的に思惑を浮遊させる作りである。倫理的にどうこうという輩もいるかもしれないし、そういうことに煩い人は苦手であろう。何せ、それ程葛藤観もなく、いわゆる“不思議”ちゃんが、ハードルを易々飛び越え、道徳観よりも自分の抑制されていた心に赴くのだから。しかし、そこは裏切るとかのネガティヴさが無いのは登場人物が誰も心に傷を持ち、そして少しの罪を抱えているのだ。そこは丁寧に描かれているから、或る意味『成るように成る』的な運命に従う進行になっている。なので自然と肯定感も生まれてきて、逆に安心して展開を眺めていれるのである。主人公の女優の体当たり演技なんてのは常套句で、濡れ場や自慰、そして鼻水を垂らしながら泣くシーンも、そこまで力が入ってなく自然な演技が出来ていたのは良かったと思う。決して難しい内容ではないだけに、それをゲーテからインスピレーションを得ての昇華を表現できたのかどうかは自分には解らない。しかし、少なくても切なさや哀しさ、そして運命みたいなものを静かに印象付けた今作は良作であるということだけは充分理解出来る。草木や花びらに触るように、女性を扱い愛する事。その繊細さ、優しさを痛いほど教えて貰った。そして古書店はまるで浜辺に打ち上げられたようなものという表現は、その本自体、元々所持していた人達の想いが強く宿っていることも・・・。スズカケノキの名称がこれ程素敵に映える作品は今まで観たことはない。
花びらみたいに触ってください
一編の詩をつぶやくようなセリフが続く。
どうもこの手の映画は、そんな切れ切れの台詞が多い。作り手はカッコいいと思っているのか、暗くてまどろっこしくてじれったくて、気持ちが離れていく。場を盛り上げようとチェロの調べが感情に寄り添おうとしているのだろうが、むしろ手垢のついた手法でウザい。作り手たちの集団陶酔に付き合わされた気分。
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