マリッジ・ストーリーのレビュー・感想・評価
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一緒にはいられないけど
ニコールの長所「気まずい場面で相手を気遣える。人の話をよく聞く。家族の髪を切る。片付けや家事は苦手だけど、僕のために努力している。贈り物のセンスがいい。息子と本気で遊ぶ。負けず嫌い。映画スターへの道が拓けたのに、僕の舞台に出るためにニューヨークへ来てくれた。僕が一番好きな女優だ。」
チャーリーの長所「意志が強い。他人に何を言われようと、自分がしたいことをする。几帳面。映画でよく泣く。家事が得意。服のセンスがいい。負けず嫌い。嫌になるほど子煩悩。没頭する性格。劇団のまとめ役で研修生にも気を配れる。」
相手のことを尊重し合うとても理想的な夫婦の物語が始まるかと思えば、実はこれは離婚調停で弁護士が互いに書き出させたものだった。
別れる前にもう一度出会った時の気持ちを思い出して欲しいと。
しかし二人の仲は修復出来ないほどに壊れていた。
二人の間に愛がなくなったわけではない。それでも男女の間には一緒にいられなくなる理由が生まれてしまうことがある。
チャーリーは舞台の演出家、ニコールは女優だ。
よく芸能人がすぐに破局するニュースを目にするが、それはどちらも同じ業界にいて、夢を追う仕事をしているからではないかと思う。二人の間に格差が生まれてしまうと関係を続けるのが難しくなってしまう。
チャーリーとニコールの関係の悪化も、二人の仕事に対する想いの違いから始まってしまった。
ニコールは気づいてしまう。自分はチャーリーの才能を引き出すための道具になっていると。
思えば最初に書き出した互いの長所の列挙も、チャーリーはニコールが自分のためにしてくれたことを重視しており、ニコールはチャーリーの家族や劇団での人に対する接し方を重視しているようだ。
ニコールはチャーリーを自分勝手だと責める。
チャーリーもニコールが自分を家庭に縛り付けたと責める。
本当は二人とも弁護士を通さずに穏便に事を済ますつもりだった。
そして一人息子のヘンリーを巻き添えにしないと。
しかしどちらも親権を主張したために、二人の話し合いだけでは問題は解決しなくなる。
弁護士が介入したとこにより離婚調停は泥沼化する。
二人には喋らせないで、弁護士同士がいかに二人が親としてふさわしくないか罵り合う場面は観ていて痛々しい。
二人は嫌でも自分たちの恥部を見せつけられてしまうことになる。
歯止めが利かなくなるのは、二人とも負けず嫌いで、お互いが自分が正しいことを主張するからだ。
可愛そうなのは二人に振り回されるヘンリー。もっとも二人の深刻さをそれほどまでに感じていないようではあるが。
二人以外は劇団のメンバーもニコールの親族も、そしてもちろんヘンリーも離婚など望んでいない。
二人が話し合いを持とうと歩み寄るが、結局罵り合いになってしまう場面は印象的だった。
お互いにそれを言ったらおしまいだというぐらいに強烈な言葉を相手に浴びせるが、本当に憎み合っている者同士ならおそらく口すら利かなくなるだろう。
お互いに対する尊重の想いはあるのに、それでも一緒にはいられない男女の仲の複雑さを考えさせられる。
冒頭のお互いの長所を書き出したメモを、お互いが発表し合う機会はなかった。
けれど、そのメモが最後にとても感動的な形で使われる。
二人は一緒にはいられないけれど、これからもお互いを尊重し合える存在として、そしてヘンリーの良き親としての関係は続いていくのだろう。
駄目な母親は社会的にも宗教的にも許されない。 ユダヤ教とキリスト教の根底には聖母マリアだから
『駄目な母親は社会的にも宗教的にも許されない。
ユダヤ教とキリスト教の根底には聖母マリアだから。しかし、父親は天国に神としているからいつも不在。
母親は何時もマリアの様に完璧を望まれる。』弁護士ノラの台詞。
一度の浮気と壁ドンは男が悪い。男目線だが、ややフェミニストな離婚までのコメディ。面白かった。
夫婦ってこうなの?
離婚裁判がエンタメになるのか?
なるんですね。すごい。
後半の離婚裁判、なりふり構わない殴り合いの舌戦を代理人が繰り広げ、夫婦仲も壊れれかけてしまう?!の後の名シーンの後、裁判長が投げて送られてきた監察官の判定という虚しい決着。結果的には、本当に円満に、むしろ夫婦仲は良くなったんじゃないかなぁと思いました。子供は大変だけど。
改めて考えたら、これだけのものをよく圧縮したなぁと。
素人の世迷言なんですけど、
脚本と監督できて受賞歴があって天才奨学金貰ってるほどの実力者ならLAでも通用しそうだけど完璧主義者かぁ。
だけど、ブランクのある女優(元は映像)のマジワンチャン(確変で連チャン期待大)ていう設定もうまいなぁと思いました。
はぁ、腹いっぱい。
愛のある離婚話
きっと夫婦が見るべき映画。愛があっても少しのすれ違いで離婚騒動となり、更に2人が予想もしていない方向へどんどん進んでいく、、、愛があるのに。戻れることのない道を社会に押し続けられていく、、、愛とお金が一緒に生きていくことはできない。。。
難しかった。私には。まだ。きっと大きくなったらより、理解できるんだろう。そして、愛があるのに離婚するなんてって思っちゃった。でも、お金には勝てないのだよなぁ。2人とも更生して、またくっついたら良いのになって思っちゃった。でも、最後に子供が手紙を読んでるのは、泣ける。アダムがはまり役すぎたし、スカーレットふたりの葛藤、そして大喧嘩、全てが俳優魂の塊だったし、2人の演技力の高さが、めちゃくちゃ現れている作品だった。
嫌いになったわけじゃないけどもう一緒にはいられないっていうパターン...
嫌いになったわけじゃないけどもう一緒にはいられないっていうパターンの離婚話。
離婚協議やたまに感情的になる場面がリアルだなぁと思ったけどだからなんだという感じ。
人の離婚話を見ても特に面白くはない。
安定カップルにはおすすめの離婚映画
アダム・ドライバーが演じる舞台監督チャーリーと、スカーレット・ヨハンソンが演じる女優ニコールの夫婦。8才の一人息子を連れて、家族で暮らすニューヨークを去り、ロサンゼルスに移ったニコールは離婚する気持ちを固めていた。
二人で話し合って離婚の手続きを進めていくつもりが、妻が弁護士を立てたことで夫も弁護士を雇うことになった。親権争いを少しでも有利にするために、夫はニューヨークの住まいとは別にロサンゼルスに家を借り、ニューヨークとロサンゼルスを行き来する生活を強いられる。
弁護士を立てても事態はよくならない。特に夫にとっては精神的にも金銭的にも消耗戦である。
そして離婚。
物語の展開に特にサプライズはなく、夫婦関係のいろんな場面を経験してきた大人には物足りない。映画のラストで、ニコールがチャーリーのほどけた靴ひもをニコールが結ぶことで示す小さな愛情も、リアリティがないように感じた。そういうキレイな離婚もあるんだろうが。
ローラ・ダーンが敏腕弁護士を演じてアカデミー賞の助演女優賞を受賞したが、弁護士であるから知的ではあるだろうが、ビッチに近いタイプの弁護士が高額の報酬を得ることに、あるいはアメリカ社会のそういう部分に好感は持てない。
結婚が持つ苦い可能性を見てみるという意味で、まだ結婚していないカップルなんかにはお勧めの映画かもしれない。
結婚を夢見る人は決して見てはいけない
タイトルはマリッジだが、内容は皮肉にも離婚の物語。舞台監督の夫チャーリーと女優のニコールは、お互いのキャリアの方向性などのちがいから、結婚生活を終える選択をする。はじめは友好的な別れのように見えるが、離婚協議のため弁護士を立てた途端に状況は一変する。一人息子のヘンリーなどを巡って争う弁護士同士の競争心は、離婚協議をビジネスとしてしか見ていない容赦ないもの。自分にもいつかこんなことが起こるのかもしれないと思うとゾッとする。友好的な別れなんてやはり幻想なのかもしれない。
個人的には、やはり元夫婦の2人が本気で口論し、罵り合う場面が見どころであるように思う。ニコールの姿がまさに自分と重なるように見えたのは、きっとわたしだけではないはず。他人事とは思えないその姿が、トラウマになるほど鮮明に脳に焼き付いている。
一度は生涯を添い遂げる決心をした2人が離婚に至るということは、やはりそれなりの理由やそれぞれの思いがあるわけで、離婚協議が争いと化してしまうことも、喧嘩がヒートアップすることも納得できるような気がする。それでも一度は本気で愛した相手なのだから、最後には別々の道を歩む新たな門出を祝福し合う、そんな関係になれたらいいのだと思う。とにかく、結婚経験者にはとても刺さる作品。
離婚よりも結婚続行が視野に入る作品
離婚は結婚の3倍大変、などとは言うものの、結婚がフィーリング、タイミング、ハプニングと言われる点は、離婚も同じなのではないかと。感情で離婚しようと強く思い、タイミングハプニングが揃えばあっという間に離婚に至るが、タイミング次第では離婚に至らない事もありそう。
アダムドライバー演じるチャーリーの劇団監督の仕事に合わせてLAからNYに移り住んで、一人息子ヘンリーを育てながらチャーリーの劇団で舞台女優を続けていた、スカーレットヨハンソン演じるニコールに、再びLAでTV女優の仕事が舞い込んだところから、仕事次第ではLAに長くいるつもりでニコールは息子とLAの実家に戻る。
この時点でチャーリーとは離婚を考えていたから、円満な離婚を望みつつ、知り合いの勧めをたまたま得て、その人の弁護士に会いに行くニコール。その前にカウンセラーに夫婦で参加し、互いの長所を読み上げる提案を受け文書を準備はしていたが、読みたくなかったニコール。気持ちはよくわかる。もう本当に我慢ならないとその時は思っているのに、不満を聞いてもらうならまだしも、褒めて持ち上げて結局丸め込まれるのはごめんだもの。
結局当初は互いに望まなかったはずの法廷に出る事になり、ニコールが依頼したローラダーン演じる隙なく責めるやり手弁護士に太刀打ちするため、チャーリーも弁護士を探す。仕事の合間に慣れないLAに通ってきている状態だし、良さそうな弁護士は既にニコール陣の作戦でニコールの相談を受けた事があるため、チャーリーにはつけない状態。この時点でかなり後手に回ってしまう。
お互いに良い父良い母だし、子供を手放したくないからこそ戦っている。裁判の準備になってから、互いに子供の取り合いみたいになっていて、物心ついているヘンリーは双方に振り回される。ハロウィンを母の家族達と、父と2人での2回こなしたり、両親両方と楽しく過ごしたいだけなのに、振り回されて疲れていて。
途中、弁護士同士の容赦ない泥仕合と本人達の温度感は異なり、当人同士で本来禁じられているはずの話し合いを試みたりもするが、結局喧嘩になってしまって。
家に子供の様子を見る観察官が来てどちらが親にふさわしいかとなり、結局ニコールが親権を取り、チャーリーがLAにいる時は、ヘンリーの養育はニコール55%チャーリー45%と決まる。
でも、ニコールがLAで訴えに出たため、裁判ではLAに拠点があるか否かがかなり重要な争点となるも、本来そんなのはどうでも良い事だし、依頼した弁護士は引き分けと吹聴されるのが嫌だからと50%50%ではなくあえて55%取ったりと、弁護士が本人達の意思とは離脱したところで動いてしまう一面もある裁判。せっかく天才助成金が降りたのに、劇団や息子のためではなく、チャーリーが裁判での心象のために借りたLAでの賃貸の家賃や、NYとLAを往復する渡航費、裁判のために消えてしまったり。
判決が出て次のハロウィンでは、チャーリーはUCLAに招かれ暫くLAにいることに。ニコールは、チャーリーの仕事ぶりを見ていたからこそ、監督業に乗り出し監督作品でエミー賞候補に。しかも、仕事ができなさそうでヘンリーの保護者としても相応しくなさそうな新しい彼氏と一緒。でも、ニコールは、カウンセリングで読み上げられなかったチャーリーの沢山の良いところを記した紙を処分できず、息子ヘンリーが音読している。「矛盾しているが、一生愛するだろう」の一文を読み上げる前に、こみあげた涙を堪えるアダムドライバーの演技がとても良かった。
その時チャーリーもニコールも思っているだろう。
「こうするしかなかったのかな?」と。
ニコールの仕事のタイミングは逃せば最後だからこうなった。でもあと少し待てば、チャーリーはNYにこだわる必要がなくなり、ヘンリーと過ごせる時間もかなり増えたのに。妻の支えがありチャーリーの才能は世に認められるようになり仕事が上向き、夫と過ごしたからこそニコールも演技も、監督としてもスキルアップ。子供は両方に懐いている。
裁判でどちらが完璧な親か主張し罵り合わずとも、どちらも不完全でも補い合えればそれが重要なのでは?
誰とでもうまくやれるニコールの母目線では「私はチャーリーが好きだし本当に離婚するの?」と言うのはよくわかる。側からみればまだまだ戻れる余地がある。でも当人同士はその時は我慢の限界で。
本拠地が違う者同士だと、積もり積もらせずにこまめに夫婦以外の場で愚痴を吐く場所があまりない、子供を置いて夫婦2人の時間を取る環境を作ることさえもできないことも影響していると感じる。
どちらも才能豊かで優しい美男美女、小さな事にもちゃんとお礼を言ってくれる素敵な夫。
タイミングさえ違えば、「また違う結果になったかもしれないのに」「ちょっと待ってお互い素敵な夫婦だし、まだ幸せへの余地はありそうだよ!」と、見ているこちらが当人達に投げかけたくなる。
当人達も、「私達何やってるんだろう」「息子は巻き込みたくないのに」「こうするしかなかったのかな」と立ち止まっている様子はたくさん見受けられるのに、一度依頼し走り出したら止められない裁判。
夫婦として終わる瞬間を見せられているのに、まだ存分に残っている、当事者だと見られない「結婚生活の可能性」を見せて貰える作品。
スターウォーズは終わったけれど、スターウォーズ同様アダムドライバーとローラダーンは敵対陣営。若い頃のジュラシックパークの勇敢で優しいお姉さんなローラダーンの印象からか、彼女の役には誰かのために戦う要素が必ず入っている気がする。でも、今回の弁護士役は、計算高い優しさも備えた容赦しない手強い女性として、仕草などもかなり作り込まれていた気がした。
アダムドライバー好きだなぁ。
やけくそbeing aliveがさいこう。
ノアバームバックが大人になった、という印象。
やんちゃっぽさが薄くなって、苦味もスパイスにできる懐の深さを感じた。年上の人にえらそうにすみません、だけど。
being aliveをヤケクソで歌うアダムドライバーがくそかわいい。なにあのかわいいいきもの。
ショートカットのスカヨハもよかった。セクシーでヘルシーで、だいすき。
ニコールによるチャーリーの長所を読んだチャーリーが声を震わせるところ、こちらも泣くしかなかった。一緒にはいられなくなっても確かにあったもの。これからもあるもの。
切なくて愛おしい結婚物語。
結婚をメインテーマとした男女関係の紐解き
もちろん題の通り、結婚した夫婦が離婚を巡り変化していく物語。
しかし、本質的にはどんな人間関係にも存在する問題を浮き彫りにするストーリーであり、メインテーマとして結婚があるだけである。
長い人間関係の中では、どこかで相手を許したり、自分の意見を曲げたりすることが必要になる。かといって、全く主張をすることなく、自重し過ぎれば、自ら鬱屈していってしまう。
そんな分かっていても保つことの難しい絶妙な人間関係のバランスを、映像作品として見事に可視化し、エモーショナルに表現した作品だと思う。
特に、最後にニコールの書いたチャーリーの長所を書いた紙をヘンリーと読むシーンは素晴らしかった。
切なさと、人間の脆さ、それゆえの美しさを存分に感じられる良い作品だった。
アメリカも日本も、同じ。
こんな風に離婚に至るのだというのが、大変共感できたし、ある意味やっぱりこれが男と女の普遍的なテーマだと、お腹の底から納得できた。ありがとう、バームバック監督。監督の実体験をもとに作られた映画ときいてます。期待に違わず、よくぞこんなリアリティを持って描けたと、溜息が出た。
妻も夫も、弁護士たちも、みな一生懸命自分の責任と職務にベストを尽くし、思いやりも愛もユーモアもある魅力的な人達と思います、悪い奴は出てこない。口は悪いけど。痛々しいくらい人間的。奥さん、特にいい人。明るく飾らず、ポジティブ。争わないように生きて来た。でも争う。みな正しいのに。
終盤をみて思いました、私も50%ずつの公平さが安心で落ち着く。でも45%55%と勝ち負けをはっきりさせるほうが安心で落ち着く人もいる。むしろこれで平和とか。法律もそう。例えて言うなら、奥さんは自分が55%の側ならその多い5%を相手に渡そうとする人。でもこの夫が55%側なら。彼ははたしてそうするだろうか。
女優と監督で夫婦という立場ですが、夫のプライドをさりげなく尊重できる可愛い、そして器の大きい、正直者のいいオンナなんですこの妻は。夫に惚れてるし。でも夫はその少し立ててもらってる、いつも譲ってもらってる愛に気付けなかった。自信と傲慢さは紙一重ですね。奥さんのささやかな誇りにも気付けない。妻の自尊心を粉々に叩き潰す口論、妻も必死で応戦、人格崩壊寸前。でも最後に泣き崩れるのは夫でした。正しいはずが、妻を罵り見下し叩き壊している自分に気が付いて。そんなことしたいわけじゃないのに。慰める妻。愛があるから相手の辛さがわかる。相手を大事に思っている、でも自分を殺して生きるには限界があります。先に気がついたのは妻でした。でもそれは彼女がしっかり彼を愛し、精一杯寄り添う努力をし尽くしたから。彼はいつ理解できるかなぁ。これまで彼女の愛に包まれていたから好きだったかもしれない、愛するのは、離れたこれからかもしれませんね。
「常識と非常識は“非常識”」
一緒に住んでいて、互いにとんでもない相手と結婚してしまったと嘆き、骨肉の争いの後に離婚して始めて夫婦の意味を知る粗筋となっていて、よくある離婚怨恨ドラマを予想させるのだが、ラストの靴紐を結んで上げるカットで、“家族”という概念を過不足無く演出せしめたノア・バームバック監督の、優れた手腕を強く感じさせる内容である。
観客側は俯瞰でこの顛末を目で追っているので、それぞれ2人の言い分や言動の不一致を確認出来るのだが、登場人物達は当然ながら手の内は解らない。その攻防の最中も息子への“接待”も又、競争のような状態になってしまう悲しさも一際である。
とにかく細部への深い一寸した仕草や行為、行動が、演技としての技量を超えた自然なカットの連続で、感心させられることしきりである。夫の台所での引き戸棚の位置間違いの“天丼”は、これが演技なのかと驚く。アダム・ドライバーは、鑑賞日だけでも2作出演しているが、確かにこの人を起用したくなる制作側の思考は大いに理解出来る。思ってる以上に身長の低いスカ・ヨハも、この役にはぴったりで、潤んだ目を湛える演技は共感を覚えずにいられない。それと同時にプライドの高さ、気の強さも又全身を覆うオーラとして纏っていて、分かり易いハリウッドイメージを表現している。NYのスノッブイメージも又、アダムドライバー然りだ。2人の器用な演技と、きちんと受け応える子役の演技も又レベルが高い。アメリカの観覧型撮影式シチュエーションコメディのような、小気味よいスピード感も飽きさせない編集である。
離婚理由が、最近観た『ゴッドタン』の『かもめんたる』というコントコンビの不満に似ていて興味深い。結局、もっと大事にして欲しいという切実な願いをどう受け止めるかの一言なのであろう。もうこればかりは現状では全てが望む抜本的解決は皆無だ。一時的に関係の回帰は窺えても、元の木阿弥になるのは常である。であるならば、いわゆる“仮面夫婦”として、お互いを同居人という立場に納めるか、今作のように闘争を起こして全ての膿を出し切るかの荒療治に踏み込むかというどれも救えない、“解決策”という語彙とはかけ離れたイベントを用意しないと先に進まない。こんな無意味で非合理な壁を乗り越えなければ、関係性の前進に至らないとは、本当に人間とは難儀な動物である。未来永劫、出会った頃の新鮮な愛情のやりとりを続けられる事は不可能だ。だからこそ妥協、又は取捨選択が便利な道具として行使される。しかし、今作の夫婦は、他のレビューでも絶賛されているように、白眉である殺風景な部屋での壮絶な口喧嘩を図らずも勃発させることで、真摯に我をぶつける手段を取ったのである。傷付けるならいっそ深く沢山・・・ 表題の通り、常識と非常識ならば、非常識を取る事が、逆説的に正しい方向へ舵をとれることを結果的に示してくれる。そんな夫婦関係の劇薬を披露してくれた今作、大変参考になりましたw
なぜ、divorce storyではないのか。
夫婦が離婚にいたるまでの過程を描いているのに、なぜタイトルに離婚(divorce)ではなく、結婚(marriage)を掲げるのか。その意味をずっと考えながらみていました。
その答えがわかったわけではないですが、個人的解釈としては、離婚までのプロセスの中で、二人も、観ている私たちも、改めて「結婚」について考えさせられる、そういう意味での「マリッジストーリー」なのかなあ、と。
結婚よりも離婚の方がエネルギーがいる、とは聞くけれど、それをリアルに実感させる。
冒頭、二人がお互いのいいところを列挙するところからはじまるから、なんだかんだ二人は元サヤに戻るのでは?という気もしていたけど、そううまくはいかなくて。そこに、弁護士がからんだり、仕事での対立、子どもの問題、ニューヨークとロスの対立…などかからんできてより複雑に。
日常の些細なできごと、ちょっとしたやりとりも、法廷でお互いを落とすためのエピソードになってしまうのがつらい。
あんなにお互いのいいところを知っている二人が、お互いの仕事を尊敬しあっている二人が、お互いを傷つけ合い、今までの夫婦生活を全否定する姿が切なかったです。
なかなか
深い映画だった。お互いの気持ちがすれ違い離婚することになったけれどお互いが嫌いになったわけではない。それでも争ううちにどんどんお互いを非難し合うようになる。最後二人の歩み寄る感じが良かった。主演の二人が熱演だった。
「ほどけた靴紐」から見える人生
新年一発目の映画始めにとんでもない作品を観てしまった気がする…
私的な話で申し訳ないけれど、現在20代半ばの私は結婚をしたいと思ったことがない。色恋沙汰にも全然興味がないし、縁もないまま生きてきた。
ただ、先の年末にFacebookに連なる「実は今年入籍してました」報告や、世の夫婦という生き物を見ていて、「なぜそんなにみんな番になりたいんだろうか」とぼんやり考えることが多くなった。
だから客観的に結婚という事象に興味がある。
これは事実で、少し前から結婚にまつわる本や映画をあたったり、実際のご夫婦に話を伺ってみたり、私なりに最近結婚について人生史上1番考えていた。
もちろん、この映画にもその答えの1つを求めて観に行ったのが正直なところだった。
結論を言ってしまえば「やっぱりよくわからない」としか言いようがなかった。
劇中何度も「結婚は面白いのかもしれない」「結婚なんか狂気の沙汰だ、同級生もみんな別れるんじゃないか(失礼)」などと、いろんな感情をぐるぐる繰り返しながら観ていたし、
「人生は近くで見れば悲劇で、遠くから見れば喜劇だ」という視点で、完全に他人事として少々冷めた目で面白く見てしまったところもあった。
(チャーリーが一人で歌うシーンなんか私は全然感動しなかったし孤独で何が悪い?と思ってしまった。私情ですみません。)
しかし…そんなものラストシーンで吹っ飛んでしまった。
ほんの少しだけ多くの息子の時間を勝ち得たニコールが、ちょっとだけチャーリーにその時間をオマケする去り際。ほどけた靴紐を結ぶその刹那、スクリーンの前の我々は全てを理解し、そして全てなんて到底わからないのだと思いながら、ただただこみ上げる感情のやり場に困ってしまうのだ。
だからこそNetflix映画だって映画館で観たいし、現実世界に戻るための着陸態勢のためにエンドロールというものが在るのだ、と今日心の底から思った。
いささか脱線してしまったけれど、靴紐の話をしたかったんだ。そう、ニコールから見たチャーリーは「男の人にしては珍しく着るもののセンスがよく、彼の几帳面さに助けられている」と評されていた。
一方のニコールは冒頭を観れば、帰宅して靴や服を床に平気で脱ぎ散らかす様が見て取れる。
そんな男が、靴紐1つに気を取られなくなるほど目の前の生活で余裕がなくなり(髪が伸びてボサボサという指摘も途中であったけれど)、
そんな女が、他人の身だしなみの解れを瞬時に見て取ってしまう。
…あぁその変化こそが「結婚」なんだな。
人生経験の浅い小娘ながら、親や周囲の年長者に説教されるよりも、このたった数秒のシーンの方が私にとっては雄弁に結婚を物語るものだと確信した。
そういえば劇中でも「愛するとは等しいことだ」みたいな台詞あったな。お互いの価値観や癖や生き様や様々なものを等しく交換したり、譲れないものは線引きしたり、その中で折衷点を探る過程が結婚生活のある人生なんだろうな。
それから劇中劇で「嘘みたいで泣けない」と言っていたニコールが、千秋楽の夜、チャーリーにおやすみの挨拶をした後、こみ上げるように涙を流していた、その現実の皮肉も、
冒頭でニコールが読み上げられなかった「お互いの長所」のメモを最後に息子が読み上げているのに加わってチャーリーが泣いてしまうところ(しかもニコールがそっとそれを見ている)も、
互いの立場や耐え難かった環境や感情を、それぞれが追体験するようで悲しくも美しく思った。
そして、そんなことがあったとは後生当の本人たちが知る由はないのである。でも、多分それが人生なんだろうな。知っているのは画面越しの我々だけの特別なのだ。
もちろん、画面を離れた後の生活では、彼ら彼女らと私たちは等しく、悲劇のような喜劇のような人生を歩まねばならないのだが。
「愛」は「憎悪」と表裏一体、1度ヒビが入ったら取り返しのきかないもの
「カイロレンとブラックウィドウの離婚劇!」という情報のみで鑑賞してみたが。
離婚劇というので、
倦怠期でとっくに愛の尽きた夫婦仲最悪の二人が罵詈雑言浴びせあいながら親権を争い合うドタバタ修羅場シリアスコメディ
かと思いきや、そんな単純明解なものではなく、もっと複雑で難解でピュアなものであった。
個人的に夫婦という生き物の複雑怪奇さを如実に描いた傑作だと思う。
まず前半、離婚は決まっているがお互いを尊重しあい、相手の長所も短所も理解しあっている、一見何が問題で離婚に至ったのかわからない夫婦像が描かれる。
二人とも大人である、お互いの不仲が子供の成長に大きな影響を与えることもわかっているし、実際お互い憎み合って別れるわけではない。
子供をアダムがいるNYとジョハンソンがいるLAの間を行き来させながら、適度な距離感で離婚を進めようと努めている。
しかし、ひょんなことから妻が弁護士を雇ったことを機に、親権争いはお互いの計画と反してもはや後戻りできないほどの泥沼に陥っていく。
前半コメディかと思えば親権争いあたりからシリアスになり、終盤に恋愛モノへと帰結し涙が溢れてくるこの構成は見事。
ベルイマンの倦怠期夫婦もの「ある結婚の風景」やら、親権争いドラマの傑作「クレイマークレイマー」やら、出会いと別れを対比して描いた「ブルーバレンタイン」やらを彷彿とさせる要素が詰まっている。
本作は男女の対比が明確で素晴らしい。
まずお互いの長所を言い合う場面、NYとLA、自分を取り戻していく妻と自暴自棄になっていく夫、カラオケのシーン、その他諸々。
長所は短所へと、好きは嫌いへと、安心は不安へと、成功は失敗へと、変貌していく。
極めて現代的な夫婦だが、抱えている問題はいつの時代も色褪せない根本的なもの。
結局、フェリーニの「道」の時代から(まぁ人類が誕生してからだが)男は失ってから気づく、鈍感で愚かで間抜けな生き物であるのかなあ。
僕は途中からアダムスの心情に完全に同化してしまい、見るのが辛くなっていった。
しかしあれだ、寄りは絶対に戻らなくても、愛というものは全て綺麗さっぱり払拭されるものではないと。
しっかりと愛し合って、しっかりと別れと向き合った相手となら、多分絆は永遠のものであると。
そんな、非常に希望に溢れるラストで素晴らしかった。
あと絶賛すべきは主演俳優二人の演技。
最近のイメージである、セクシーでグラマラスなアクション女優としてのスカーレット・ジョハンソンはそこに存在せず、見事な長尺の一人芝居、夫婦喧嘩などを演じきり、一人の女の喜怒哀楽がこの映画の彼女にはギュッと濃縮に詰まっていた。
アダムスドライバーはスーパー旦那としての前半部分と、男の情けない部分を凝縮させた後半部分、綺麗に転換していくグラデーションのある、泣ける演技が見事だった。
とりあえず本作はトラウマ恋愛映画の仲間入りです。
「結婚のお話」(子無しの独身者にはわからないお話)
独身主義者で子を設けたことのない私には、この夫婦の感情の縺れ、あや、機微、愛憎などを理解出来たと自信を持って言えない。
独身主義者としては大体生まれも育ちも違う全く赤の他人の二人(男女には限らないが)が何年も一緒に暮らせるというのが或る意味不思議である。(社会の最小単位である夫婦とその家庭とを否定している訳ではない。)よほど忍耐と妥協点とを要求されるものと想像する(まあ、人生も忍耐力と妥協との連続ではあるが)。恋愛の経験はあるので、惚れたはれた(少しでも長く側にいたい、ずっと一緒にいたい)は理解できるが、そういう気持ちは数年しか続かないことも分かっている。既に結婚という(社会的に言うと)契約を交わしてしまったカップルはその後もその形態を続けていくことにどういう折り合いをつけているのだろうか。恐らく各々が結婚という状態を続けていく事が自分にとって何らかの意味や価値やメリットがあると判断するからであろう。勿論、国によっては経済的な問題や、子供の問題(しかし子供というのは敏感なもので、両親間の空気というものを察してしまうものだ。子供にとって大事なのは各々の親から愛されているかどうか、ということだと思う。)、一人でいるのが寂しい、面倒くさいということ含めて…
で、この映画は結婚を続けていくことに意味や価値を見出だせなくなった一組の夫婦(特に妻の方がより)のお話である。しかし離婚を軽く(?)考えていたこの夫婦は、結婚というものが社会の中での一つの契約形態であるからには、それを解消するにも社会が絡んでくるのを良く理解していなかったことから、自分達の思惑を越えて事態は泥沼化していく。また、ローラ・ダーン演じる妻側弁護士の『離婚訴訟に勝つためには、建前でも妻は聖母マリアで有ることが必要なのよ!』という台詞は、「勝つこと」が優先されるUSAで、女性が勝つために求められるのは旧態依然といた処女性というのが、いかにも皮肉で興味深い。他方、離婚を切り出した妻(女性)は結局最後まで強い。ヨヨと泣き崩れたり、バーで『僕は生きている』と歌うのは、ここでは男の方なのだ。映画としては良く出来ている。演技的には、チャーリーがLAに借りた家での互いに相手をメッタギリにする喧嘩シーンがハイライトであろう。ベルイマンの『ある結婚ぬの風景』での凄まじい夫婦喧嘩シーン(特にリヴ・ウルマンの演技とはとても思えない演技)を観た後では、どんな夫婦喧嘩シーンも生ぬるく見えてしまうけれども、このバトルシーンの緊迫感もなかなかのものであった。然し、ヘンリーの為にも仲直りできないかな、と儚い望みを持ちながら観ていたが、あそこまで言い合っちゃうと最早修復は不可能ですな。
※追記:ニコールの母親役の女優、どこかで見た顔だなぁ、と思っていたらジュリー・ハーガティだった。懐かし~
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