劇場公開日 2022年2月11日

  • 予告編を見る

「今日も流れとる。川がだよ。毎日涸れることなく。」高津川 栗太郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.0今日も流れとる。川がだよ。毎日涸れることなく。

2022年3月10日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

個人的に、最近、宮本常一などの民俗学の本を読んでいるせいで、地方の風習や風土、信仰、くらしに興味がわいてくる。とくに日本は戦後を境に生活様式から文化、流通など様変わり。置いてきぼりを食っていた地方も、都会に負けじと近代化していった。それが自らのアイデンティティを手放してしまう愚かさだと気付かずに。令和のこの停滞した世の中でこそ、その訴えが身に染みる。川だって昔は速くて輸送力があった交通手段だったわけで、"ダムがない"ことは当たり前だった。そしてこの高津川も、宮本の本のなかで紹介されていて、このタイトルを見つけた時から公開を待ち望んでいた。

ご当地映画の定番ストーリー。まるで記録映画のようでもある。ここには、映画のネタが多く、それはそれだけ人が暮らしてきた歴史の重さ深さを感じた。映画のタイトルを「高津川」としたのもいいなあと思った。悠久に、人間がここに住む前からもこれから先もずっと流れつづける、その確かな存在は、環境が変わろうとも在り続けるものだ。もし「石見神楽」にしたらちょっと印象が変わったと思う。
ここに描かれるのは、日本各地と同じように停滞する地方。結局解決策はなく、「うちの田舎、俺は好きだよ」的なれ合いになることはわかってはいた。そもそも、解決策なんて、今の日本のどこにだってありゃしないもの。この先、ゆるゆると活力を失っていく日本の現状がここにもある、そう思って受け入れるしかないんだと、僕は思っている。負け犬としてじゃなく、現実として。
映画に不満はある。なにより、地元出身の監督なのに言葉にこだわりを感じないことだ。たとえばもし娘が東京帰りなら標準語をつかうことも許そう。そこに未練を感じることができるからだ。たしかに今時は日本の到るところの若者はTVの影響もあって標準語に近い。だけど、地元と大阪にしか住んでいない娘の言葉がなぜイントネーション含めて標準語(語尾に言い訳程度に訛りをつけているが)なのか、解せない。そういう不満は監督の過去作「たたら侍」でも感じた。厳格な職人の家で育ちながら、役者の普段の癖である左利きのまま演技させていたことに強烈な違和感を感じた。この映画の「言葉」も同じだった。昨今、観客が聞き取れないほどの方言の映画(たとえば「いとみち」とか)があるが、それでこそ地方のリアルだと思う。むしろそれでしか、地方の苦悩が伝わらないとさえ思う。地元に残った者が「えらいんじゃ」と言うからしんどく聞こえる。出て行った同級生の弁護士が「大変だなあ」というから空々しく聞こえる。言葉は聞き取れなくても、表情や空気でちゃんと伝わるものですよ。むしろ、伝えてくださいよ。
さらに言えば、寂れていく一方の田舎に抗えない中年を主人公にするのではなく、進路を含め行く末を思い悩む高校生を主人公にしたほうがよかったのでは。たとえ、見通しのわからない地方の現状を描いたとしても、どこかに希望が感じられたはず。あれではノスタルジーに浸る中年たちの問題の先送りでしかない。それに弁護士、お前いまこそ皆と手をつなぐ時だろうよ。

栗太郎