「「トムクルーズ」ではなく「マーヴェリック」が主役。」トップガン マーヴェリック すっかんさんの映画レビュー(感想・評価)
「トムクルーズ」ではなく「マーヴェリック」が主役。
○作品全体
前作『トップガン』は戦闘機やドッグファイトを撮る、という意味では本作と同義だが、前作の主役は主人公・マーヴェリック、というよりかは俳優・トムクルーズだった。マーヴェリックの心情の変化や葛藤よりも、トムクルーズの肉体美や「喜怒哀楽の表情」そのものを映すシーンが優先されていたのが、そう思う一番の理由だ。トムクルーズのかっこよさにクローズアップすると言う意味では完璧だったと思うし、撮られるに相応しいオーラがあったから別にそれがダメだとは思わない。ただ、最終的にグースの死をマーヴェリックがどう消化してドッグタグを海へ投げ込んだのか、という心象描写に納得のいくものがあったかと言われると、首を縦に振りづらい。
本作ではそういった、前作で置き去りにされた「マーヴェリック」に光を当てるような作品だった。
最初のシーンから早速、マーヴェリックが「取り残されている」印象を強く意識させる。マッハ10を目指すマーヴェリックのそばにチームは存在するが、マッハ10を体感するのはマーヴェリックだけだ。全てを置き去りにするスピードによって浮立つ孤独感。前作ラストの「あのとき」に残ったままの感情を匂わす物語の始まりだった。
本編全体にある前作オマージュもファンを喜ばせる要素としてだけでなく、マーヴェリックにとっての「あのとき」がどれほど濃い時間で、今もなおマーヴェリックの中に(いい意味でも悪い意味でも)残り続けているのかを証明する演出になっていて、「今回はマーヴェリックが真の主役なんだ」ということが伝わる。
例えばビーチのシーン。前作でもアイスマン達と距離感を縮める演出意図はあったが、正直それはおまけのようなもので、トムクルーズを映したい、という制作側の目論見は映像を見ていれば疑いようがない。それが今回のビーチラグビーでは明確にチームとして結束を強めるものとして描かれていた。映像的な見栄えでなく、マーヴェリックがあのとき得た経験を活かした場面として切り取っているのは「トムクルーズ・ファースト」ではなく「マーヴェリック・ファースト」の作品となった証左ではないだろうか。
そんな「マーヴェリック・ファースト」な作品構成の中で根幹となる、グースの子・ルースターとの和解。それに向き合うマーヴェリックの姿がなによりも印象的だった。
マーヴェリックの中でルースターとどう向き合えばいいのか確かなものがないまま、ルースターの願書を破棄し、とにかく戦闘機から遠ざけようとしていた。しかし月日が経って目の前に現れたルースターは、戦闘機乗りの技術を有した有望なルーキーとなっていた。
ここでマーヴェリックの選んだ選択肢は再び強引に引き離すのではなく、生きて任務から帰還させることだった。戦友だったアイスマンが斃れ、自身も軍人としての時間が少ない状況で、最後の任務は「あのとき」に置き去りにしたままの感情にケリをつけること…これはもう、マーヴェリックの物語と言わざるを得ない。終盤にあるのは、グースを助けることが出来なかった「あのとき」の失敗に報いようとするマーヴェリックの心意気だけだ。
任務中にルースターを助けたことにより、敵陣側で孤立するマーヴェリック。しかしそこに駆けつけるルースター。マーヴェリックがルースターと向き合ったからこそルースターが手を差し伸べにきた、と言ってもいいだろう。前作で最期までマーヴェリックを1人にさせなかったグースの姿と重なるシーンでもあって、グッときた。
2人が空母に帰還したシーンは泣けた。大騒ぎの中で何度もマーヴェリックの名を呼ぶルースターがまた良い。今まで面と向かって言えなかった言葉を伝えたいという気持ちが溢れているようで、とても良かった。
このラストシーンも前作オマージュではあるけれど、マーヴェリックにとって「あのとき」のままになっているグースとルースターへの罪悪感をほぐすことができた、という部分では意味が異なる。前作でアイスマンと抱き合った時に見せた晴れやかな表情と違って、安堵にも似た表情が印象的だった。
前作の公開から30年以上経ち、トムクルーズもマーヴェリックも歳をとった。あの時のような若々しさはないが、歳をとったからこその渋みやキャラクターとしての奥行きは重厚なもので、見応えのある作品になっていた。