「過ぎてしまった日々を美しく照らし出す」劇場 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
過ぎてしまった日々を美しく照らし出す
弘田三枝子が亡くなった。歌手であった彼女の代表曲はなかにし礼作詞、川口真作曲の「人形の家」である。気に入られて、可愛がられて、ときには不機嫌に投げつけられたり汚されたりして、そしてやがて飽きて棄てられる。人形とはそういうものだ。
本作品は結婚ではなく同棲している若い男女の話で、松岡茉優が演じた沙希の台詞「私は人形じゃないよ」が二人の関係をすべて物語る。無抵抗に何もかも受け入れる沙希と、自分の狭量な尺度でしか人を測れない永田。沙希はそんな永田の才能を信じて懸命に働く。もしかしたら永田よりもずっと才能があったかもしれない自分のチャンスを奪われても、沙希は永田を尊敬して支える。
切なすぎる女心を松岡茉優が情感たっぷりに演じてみせた。これほどの優しさと寛容さには滅多に接することがない。山﨑賢人が演じる永田が長い時間をかけてやっとそれに気づき、語彙に乏しい彼らしく沙希を「神様」と呼ぶが、ときは既に遅く沙希は使い古された人形のようにボロボロになっていた。
ヘンリック・イプセンの戯曲「人形の家」ではノーラが自分が人形のように夫のお飾りにすぎなかったことに気づく。昨秋に俳優座劇場で観た音楽劇「人形の家」では土居裕子さんが演じたノーラは美しい歌声とともに颯爽と家を出て行った。
本作品の沙希はもっと現実的で、これまで永田のために費やしてきた時間を振り返る。それは無意味な時間ではなかった筈だ。その時間が愛おしい。しかし壊れてしまった気持ちはもう元には戻らない。気持ちが壊れたのは世間一般の幸せを思ってしまった自分のほうに原因がある。沙希はどんなことがあってもまだ永田を尊敬しているのだ。
一方の永田はと言えば、もっと自然に率直に人と接することもできるはずだが、生来のつまらないプライドが邪魔をして、常に人との関係で優位性を保とうとする子供みたいな精神性の持ち主である。山﨑賢人はよく頑張ってそういう永田を演じたと思う。しかしそれ以上に凄い演技だったのが松岡茉優で、本作品を松岡茉優の映画にしてしまった。
自省と苦しさに満ちた永田のモノローグが物語を壊れた人の話にしないように手綱を引っ張るような構成で、儚くも憐れな青春模様が淡々と描かれる。観客には苦しい映画だが、子供みたいな永田を母親のように見つめる沙希の視点が、過ぎてしまった日々を美しく照らし出す。ほろ苦い青春でも過ぎてしまえば美しい記憶なのだ。ラストシーンはそのように解釈するのがいいと思う。