「何が不快かというと…」ミッドサマー masakingさんの映画レビュー(感想・評価)
何が不快かというと…
いやはや不快感の玉手箱とでもいうべきキテレツ映画であった。
今日からはディレクターズカットも封切りなようだが、もう観る気にはなれない。
映像も、役者の演技も、音響も、とにかくこれでもかこれでもかと観る者の神経を逆撫でする。
鑑賞者の多くは、このような感じ方をしたのではないか。
ただ、鑑賞後、時間を経て熟考してみれば、舞台となった架空の村ホルガの自然観や死生観は、決して奇異でも異常でもないことに思い至る。
しばらく飼われていたであろう檻の中の熊が、終盤で解体されるくだりは、アイヌのイヨマンテの儀式に酷似していた。
死を、魂を現世から解き放ち、次の生につなげる重要な通過儀礼とする解釈も、アイヌほかたくさんの民族に共通する思想が存在している。
やや過激な崖やハンマーの活用場面はあるものの、古くからの因習を大切に保持した、今となってはかなり稀有な民族だと見ることもできる。
ホルガに訪れたダニーたち異国からの訪問者は、村の祝祭で目にするもの全てに対し、嫌悪し、嘔吐し、激怒し、研究材料として搾取し、愚弄する。
彼ら異国からの来訪者のマジョリティ然とした振る舞いが、徹底的にこの村の習慣や人々を異化し、異質性を強調する。
村が一つのカルト集団に見えるのは、観ている側が、異国からの来訪者の視点を取らざるを得ないがためではないか。
マイノリティに対し違和感と不快感の眼鏡を与えたこの作品の視点自体が、実は不快感の源泉だったのだ。
ラストショットのダニーの笑顔は、悲劇的で絶望的にしか感じられなかった家族の死から、このコミュニティの死生観によって解放されたことによる。
それが洗脳の不気味さに見えるのは、よそ者の視点に浸った者の見方である。
と、ここまで考察して、もしかして自分もすっかりあの祝祭の歌声に心奪われ、その残酷だけれど美しく清らかな自然そのものの生き方に洗脳されているのか、とも考える。
全ては夢うつつのことのように思えてならない。まさにそれこそアリ・アスター監督の術中にはまっているのだろうけれども。