レディ・マエストロのレビュー・感想・評価
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女性の立場でみる指揮者という仕事
オランダの映画に興味があり、鑑賞しました。
指揮者は女性が少ない、これに何を意味するのか。
仕事ややりたい事と結婚などの固定概念を
両立することの難しさは今の時代にも通じると思った。
やりたい事に邁進していく主人公、1人の主人公を通して、
女性の立場で夢に向かっていくことを身近に感じた。
複数借りたDVDが連続で外れ、本作に出逢えて良かった(=´∀`)人(´∀`=)
西本智美さん、三ツ橋敬子さん、田中祐子さん。
男性ばかりの職場で、特に指揮者で!!!
女性が?名を成す、結果を出すのは、さぞや大変だった事だろう。。。
耳?絶対音感?天賦の才を持って生まれ、その才を伸ばす為の懸命の努力をし、決して腐らす諦めず。。。
『カミーユクローデル』を思ってしまったな。
妙齢の女性が、女性を使わず渡って行く、てのは(特にこの時代は)さぞや大変だった事だろうて。
世は、才能と努力と環境。
才能と努力だけではどうしようもない時も有るわな。
味方も居ない、ロクな奴が周りに居ない。
それでも主人公は諦めず、前を向いて進む。。。
良い題材だし、何より良い映画だ( ・∇・)!
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実話、世界初?の女性指揮者アントニアブリコの生涯を描いた作品。
実話ベースだから、最後は指揮者になれるから見れるけど、中々にハードな生い立ちと生涯。
様々な困難が降り掛かる、おしんか!同期のサクラか!!!
ラストのクライマックス前がダサかった、そこ以外は素敵な映画だ!
フェラーリには乗ってみたい、機会が有ったら乗るだろう。
オーケストラの指揮とかしてみたい、でも機会が有ってもタクトは振らない(振れない)。
がんばる女性は好きだ。
挑む女性も好きだ。
結果を出す女性は、一番好きだ!
オーケストラとかウインドアンサンブルとかブラスバンドとか、ガチで聞きたい度】☆⑤
途中はカミーユクローデルを思うけど、後半はララランドを思う度】☆⑤
良い作品だけど140分は長過ぎる度】☆⑤
エルガーの愛の挨拶は名曲だ!度】☆④
伯爵おすすめの一作(`_´)ゞ
2本立て1本目。夢へ邁進する娘へのエールとして。 すっごく面白いん...
2本立て1本目。夢へ邁進する娘へのエールとして。
すっごく面白いんだけど、主人公の行動に疑問が残るという謎の作品。
・音楽の道へと決め、男を突き放したのに、男の婚約を知るや手紙攻撃。諦めようよ。
・育ての親(母)があまりにひどいのだが…もっと怒れよ!玉ねぎぶつけたれ!
もう彼氏はロビンしかないでしょと思ったら、まさかのどんでん返し、そして伏線回収。話は本当に面白い。主人公も魅力的。当時の女性の苦悩が伝わる。アメリカってなんだかんだの差別王国。最後のクレジットに愕然としました。
己れの保身と「初」への怖れが差別の本質
女性「初」の指揮者を目指している女性を取り巻く、当時の悪癖とそれを乗り越えようと奮闘する姿を描いた作品。20世紀初頭なら、さもありなんと思われる状況が良く分かる。主人公の行動の清々しさが胸を打つ。
とはいえ、今も女性の首席指揮者がおらずベスト50の指揮者にも女性が選ばれていないのはどうしたことか。クラシック音楽を取り巻く人びと(指揮者、演奏者そして観客も)には、今だに女性を軽く見る風潮や心理が働いているということはないのか。
【女性指揮者を目指し、数々の困難を乗り越え、夢を叶えたオランダ女性の気骨。何事にも諦めない勇気を貰えます。】
クラシック音楽をこよなく愛するウィリー(本当の名前はアントニア・ブリコ)は、かなり向こう見ずで気が強い。オーケストラのホール係として働くが、尊敬する指揮者を観たいがために椅子を最前列の真ん中に持ち込む場面などが印象的である。(且つ、このシーンは効果的に再現される)
が、その気質が指揮者には求められるのだと、数々の困難を乗り越える彼女の姿を見て気づく。
印象的な場面は数々あれど、
・実の父母と思っていた二人が実は養父母だった事が分かった場面(養母の彼女に対する態度の理由が判明)
・本当はオランダ生まれで本名はアントニア・ブリコだと分かり、養父母との決別の後、本名を正式に名乗る場面。
・ピアノ教師のセクハラに毅然と対応するシーン(あの対応は全く正しいが、彼女の気性も物語る。)
・オーケストラホールも経営している(そして、上記の一件で彼女を馘にした)上流階級のフランクと恋に落ちる場面。だが、彼女はフランクの望む妻の座より指揮者になるという困難な道を選ぶ。苦悩する二人。
・アントニアが粘ってドイツの指揮者の指導を受けるようになる場面
・偏見と闘いながら、女性指揮者として脚光を浴びていく場面
<とりわけ印象深いシーンは>
・ブリコを陰に日向に支援していたロビンの本当の姿が明らかになった時(雪合戦で怪我してコルセットって・・と思っていたら、納得。)
今作で、最も印象的且つ涙が滲んだシーンである。
・かつてのセクハラピアノ教師とラジオ番組で対峙した際、貴方がいたから今の私があると述べる場面
(ブリコの度量と薄っぺらい男との対比)
・フランクの家を久しぶりに訪ね、彼の陰ながらの支援に感謝するブリコに対しフランクが口にした言葉”ジェントルマンであるから”と彼の子供の名がウィルだった事。
・自らタクトを振るコンサートに養父母を招く場面と、フランクが且つてブリコが行った方法でオーケストラの演奏を聴く場面・・
<世間の様々な偏見や壁:ジェンダー、生れと育ち、身分・・・に対し、決然と対峙し、乗り越えていった稀有な女性の物語。何事にも諦めない勇気を貰えます。>
<2019年11月9日 劇場にて鑑賞>
音楽にもう少しこだわりを
それぞれの登場人物が良い味を出していた。ロビンが特に良かった。
過去の話を少し減らしてもう少し一つ一つの曲の演奏が長くても良かったと思う。コンサート終わった後に少し音の無い時間が欲しかった。別の音楽がすぐ入るのはどうかと。
最後の演奏がエルガーだったのが残念。
実際に演奏された演目に忠実なのかもしれないし、エルガーが悪いわけではないのだが、エルガーはメロディが綺麗で女性的なイメージがあるからもっとガツンとした曲にして欲しかった。
今でも女性指揮者が出てこないのにはここらへんにも理由があるような気がする。
負けじ魂
エルガー「愛の挨拶」には、ずっこけてしまった。
市民コンサートにはふさわしい選曲だろうし、美しい曲である。
しかし、音楽の指揮と演奏において、“女性は決して劣っていない”ことをアピールできる“難易度の高い曲”ではない。
女性指揮者が、“負けじ魂”でキャリアを切り開く映画として、素直に見ればいいのかもしれない。
主役の存在感は強烈で、良い意味でハイテンションな演技は心を打つ。
弱みを一切見せず、強気にチャレンジを続ける人物像は、“未開の地の開拓者”の一つの解釈として納得できるものだ。
しかし、残念ながらこの映画は、上記の「愛の挨拶」に象徴されるように、どこか“ずれて”いる。
“音楽”はたっぷり聴けるが、作り手は音楽自体には興味をもっておらず、“音楽の映画”ではない。
いろいろな名曲を、脈絡もなくブツ切りにして流すのは、クラシック音楽の映画としては軽薄だ。
また、時代やお国柄を象徴しているとはいえ、なぜ盛んにジャズを流すのか。
「性別など関係ない」がテーマのはずなのに、皮肉にも“ジェンダー”を強烈に意識させる作りになっている。
“仕事か結婚か”という真面目なテーマを扱うために、ロマンチックな身分違いのロマンスを、長々と描く必要があるのか疑問だ。(実話なら別だが。)
そのせいで、音楽面での苦悩など、本来もっと描かれるべき“音楽家”としての姿が、犠牲になっていないだろうか? どんな仕事でも、男女の区別などよりは、各人の個性の方が重要なはず。
また、“友人ロビン”は、この映画を面白くしているが、もしも作り話にすぎないなら興ざめだ。
本当にすべてが「感動の実話」ならいいのだが、ロマンチックに作り込みすぎて、必ずしもリアルとは言えないのではないか。
「実話を元に」とか「伝記」という殺し文句で、鑑賞者を思考停止に追い込み、虚構まで真実だと信じ込ませるとすれば、いかがなものだろうか。
ブリコの生涯に“インスパイアされたフィクション”と銘打っていれば、もっと素直に楽しめたと思う。
主人公の熱量が伝わってくる
女性指揮者ということでは当方もイルミナートフィルハーモニーオーケストラの西本智実さんの指揮するコンサートには何度か行ったことがある。大変に力強くてドラマチックな指揮をする人だ。
指揮者の仕事の大半は練習でオーケストラを纏め上げることだと聞いている。舞台の上で指揮をするのは最後の仕上げであり、料理人が料理を皿の上に盛り付けるようなものである。材料を洗ったり切ったり練ったり漬けたりすりおろしたり、煮たり茹でたり焼いたり蒸したり揚げたりすることが料理の殆どで、仕上がった料理を見せるのが指揮者にとっての舞台なのだ。
交響曲を演奏する人たちは皆そうなのかもしれないが、少なくとも指揮者はすべての楽器のスコアが頭に入っていてひとつひとつを聞き分けることができなければはならない。大変な仕事であり、特別な能力の持ち主でなければ出来ない作業である。
本作品のヒロインにはその特別な能力が既に備わっていて、必然的に映画としては一本道の成功物語になる。しかし時代はシモーヌ・ド・ボーヴォワールが「第二の性」で女性の自発的な解放を主張する二十年以上も前である。女性にとって凄まじい逆境であったのは間違いない。
女はかくあらねばならぬといった時代のパラダイムが人々を縛り、女性自身もそのパラダイムによって自分たちを縛っていた。女性は能力よりも見た目が重視される。本作品で言えばタイピスト採用のエピソードがその典型である。
人間は多かれ少なかれ他人に寄りかかって生きていくほうが楽である。日本人で言えば「お上」に従っていればいいとする生き方だ。失敗してもそれは「お上」のせいで、自分の責任ではない。第二次世界大戦の責任を日本人の多くが感じていないのも、その依存的な精神性のせいだ。ボーヴォワールが指摘したのはまさにその点であり、いつまでも世間の価値観に従って楽をしているうちは女性の自立はない。女性は自分自身の責任を背負うことでしか自由を得られないのだ。
主人公ウィリー・ウォルターズことアントニア・ブリコは女性に対する社会のあらゆる無理解を一身に浴びてなお、やりたい道を只管突き進む。有り余る才能が彼女を後押しした訳だが、本作品で才能というのは、持って生まれた能力というよりも、好きでたまらないことの方に重きが置かれているように思える。指揮者になるか死か、というほどの強い思い込みが彼女自身を動かし、周囲を巻き込んでいく。
ニューヨークでの初めてのコンサートにあたってコンサートマスターと衝突したときのシーンが本作品のヤマ場である。仕事として定期的にコンサートをこなしている演奏者にとって、とことんこだわり抜く指揮者は鬱陶しいだけである。ましてや女だ。馬鹿馬鹿しくて言うことなんか聞いていられるかと本音をぶちまける彼に対し、アントニアは自分にとってこのコンサートが唯一であること、演奏者にとって楽器が正確な音を出すことが大切であるように、指揮者にとってオーケストラが楽器であり、それが正確な音を出すことが大切であることを訴える。それはコンサートが常に一期一会であり、定期的に演奏しているコンサートも、やはりひとつひとつが一期一会なのだという意味でもある。
そしてコンサートの観客も、一期一会の演奏を聞いている。そこにコンサートの意義がある。上手くいった演奏もあれば失敗の演奏もあった。もしかしたら今夜のコンサートは素晴らしい演奏かもしれない。コンサート会場にはレコードやCDでは味わえない臨場感がある。
さて、作品にはエルガーの「愛の挨拶」をはじめ有名な曲がいくつか登場するが、曲以上によかったのが主人公に指揮を教えるカール・ムックの人柄である。女性指揮者を受け入れる民主主義者でありながら、指揮者は民主主義ではなく専制君主でなければならないと教える。その教えは、オーケストラは指揮者にとって楽器だというアントニアの考え方に直結する。そして演奏者は指揮者のもとで楽器であることに徹し、一期一会の演奏を行なうことで音楽との新たな出会いを繰り返す。なによりも指揮者アントニア・ブリコがコンサートに一番ワクワクしていたのではないかと思う。その熱量が伝わってくる作品であった。
才能の疼き
実話に基づき、差別や偏見と闘う女性を描くという意味では、エマ・ストーンの『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』、フェリシティ・ジョーンズの『ビリーブ』と同類の映画です。この二作品が1970年代であるのに対し、レディ・マエストロは第二次世界大戦前の大恐慌の頃、即ち1929年前後の話。ですから風当たりの強さや男性中心社会からの〝圧〟はもっと激しいものがあったのかもしれません。
映画の中で語られる生い立ちも事実だとすれば、一体どれほどのエネルギーがあって、差別との闘い、その後の女性楽団の設立などが実現できたのでしょうか。
感動を通り越した驚きで、唖然とするばかりです。
音楽的素養のない私には、ただ想像するしかないのですが、彼女の頭の中には、譜面を見るだけで、ひとつひとつの楽器の音や表情が浮かぶ。一度浮かんでしまった音たちについては一刻も早く実際の音楽として解放し、奏でてあげずにはいられないのだと思います。雨天続きで室内練習場のキャッチボールしかできない球児たちを、晴天の下、一刻も早くグラウンドに解き放ち、思いっきり打ったり、投げさせたりさせてあげたい野球部の監督のように。
そういう体の奥底から湧き上がってくるような、ほとんど生理的欲求に近い音楽に対する疼きがあったからこそ、あの情熱が維持できたのだと思います。
そのような疼きに関して、男女間に差があるはずがない。そう私は思います。
※ロビンは『ロケットマン』のバーニーと同じくらいいい奴でした。
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