「自由な人として生き、自由な人として死ぬ」KESARI ケサリ 21人の勇者たち Naakiさんの映画レビュー(感想・評価)
自由な人として生き、自由な人として死ぬ
主人公のイシャル・シンが、シーク教徒のシンボルと言ってもよい自分のターバンを両手で整え身構える時、戦闘態勢をとる合図となる。
イギリス領の北インドの地で、今まさに若きパシュトゥーン人の女性が、同じ仲間から剣で首を切り落とされそうになる。それを見かねたイシャルが、果敢にも上官の命令を無視して、助けたため愛妻を残して一人指揮官として辺境の地にあるサラガリ砦に赴任することとなるが.........
その砦にイシャルが着くと兵士たちは、闘鶏に興じていて、しかも誰一人としてまともに軍服も来ていないだらしなさをさらけ出していた。イシャルが"全員1週間の飯抜きだ!"なんて言っても懲りない連中に対して、"2週間だ!"と言いつけるイシャル。そんなことをすれば兵士の中には不満を持ちイシャルを疎ましく思うはずなのだが、その2週間のおかげで兵士たちはイシャルの人間性にも触れ、兵士としての自覚も持ち始め、また兵士としての統率もとれるようになっていく。その過程を描いているシナリオがコメディの要素もふんだんに織り交ぜながら、しかも、いつものチームワークのとれたインドダンスと音楽も披露している。前半の部分は、とにかく兵士の性格や状況、つまり兵士の中には、イシャルのように故郷に肉親を置いてきて、唯一の楽しみが子供からの手紙を肌身離さず持ち、いつでも読んでいたり、人が笑わそうとしても決して笑わない者やその逆の者、そんな彼らの様子を描き、最初、イシャルも現場にはいないはずの愛妻と話す微笑ましい会話のシーンも登場する。それは彼の心の幻想を描いていたのか?
戦争のため若い者が駆り出され、家の修理もままならない村人に手を差し伸べるイシャル。何よりも戦闘で倒れている敵の兵士に対してまでも水を与える指示を出す彼だったが......!
映画も半分が過ぎたころ、サラガり砦に隣の味方の砦から危険を知らせる合図が届くとイシャルが周りを望遠鏡で見ても誰もいない? 引きあげて帰ったのか? 突然、角笛が鳴り、太鼓の音が鳴り響き、次の瞬間パシュトゥーン人や周辺の部族の混成部隊が砦に迫ってきていた。イシャルは直ちに兵士20名を中庭に召集する。そして彼は、この砦を捨て退却をすることを提案する緊張の場面で、誰一人として声を上げないでいると、いつも決して笑わない兵士ボーラが大笑いをしながらこんなことを言ってのける。
They're asking us to run!
We should flee!
また別の兵士チャンダ・シンが、このように言ってのける。
A man who keeps preaching love and humanity.......
How can he fight a war?
Why are you trying to weaken our resolve, Sir?
Why don't you just admit....... That you're scared seeing so many Pathans.
You don't want to fight this battle, Sir!
指揮官、イシャル・シンが動き出す。
映画全体を通じて個人的に言えることは、前半部分のコメディ色のあるシナリオと後半のいつ終わるかもしれない壮絶な戦闘シーンと大きく2つに分かれる演出がされ、しかも砦の10mはありそうな高さから飛び落ちるシーンを1カットで上から撮影したり、体にいくつもの剣が刺さって息絶えるところのギミックを使ったゴア表現も安直なつくりはされていない。役者さんやスタントマンの頑張りが映像から伝わってくる迫力あるシーンの連続となっている。ただラストはやりすぎ感があるようだが、それをも御愛嬌ということで.......!
批評家からあまり指示を受けていない本作。amazon.comではプライム会員にはすでにプライムビデオとして配信され、80パーセントの視聴者が☆5をつけている。また別のサイトのレビューもamazon.comの支持よりも上回っている。
余談として、シーク教徒と聞けば、すぐにコロンビア大学の"選択"というものを科学的にわかりやすく教えてくれていて、日本にも確か来日したことのあるシーナ・アイエンガー教授のことを思い出す。「選択肢は多ければ多いほどよい、そう考えているあなたは間違っています」で始まる「選択の科学」で知られている彼女の両親もまた敬けんなるシーク教徒と聞く。彼女曰く、結婚の相手は両親が決めるそうだ。