劇場公開日 2019年8月30日

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「壺と顔 見ようとした時ようやく見えてくるもの」ブラインドスポッティング マツドンさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0壺と顔 見ようとした時ようやく見えてくるもの

2020年7月26日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

夜の街角にたむろする、ちょっと身なりの崩れた黒人の若者の集団。
もし、思いがけず出会ってしまったら、怖いと思うだろう。
それは、「ルビンの壺」の一面しか見ていない、とこの映画は言うのだ。
ある時は壺で、ある時は見つめ合う顔。両方であること分かっていても、どちらかに見えた瞬間、別のもう一つに見えることはない。
見る時にはいつも、見えないブラインドスポッティング(盲点)がつきまとい、だから、「怖い存在」という面だけが直感的に目に飛び込んで来ることとなる。
そうした見え方が、コリンら黒人を苦しめる。

というだけで、この映画が分かった気になるとすれば、まさしくブラインドスポッティングにからめ捕られていることになる。
物語のバックボーンをよく理解することで、この映画がよりよく見えてくるように思う。

何といっても、オークランドの理解が必須。
オークランドは、アメリカ有数の犯罪多発都市。多くの貧しい黒人がゲットー(貧民街)に住み、1960年代後半には黒人の人権を擁護するブラックパンサー党が組織された、反骨の街としても有名。
そういう街でコリンとマイルズは育ち、タフガイとして生き延びるすべを身に付けた。前歯を飾るグリル、髪を編み込むドレッドヘアーはまさしくアイデンティティーそのもの。
だから2人は、オークランド以外で生きていく事などできないかもしれないという恐れを無意識に抱き、その恐れが強い程、そんな自分たちを受け入れてくれる街に愛を強く感じることになる。

オークランドの南はシリコンバレー。
オークランドにもITリッチマンが流入し、不動産価格や物価が上昇している。
当然、意識高い系が増え、肉だけではなく卵なども食べないビーガンに食料品・飲食関係の店も対応せざるを得なくなる。ビーガンハンバーガーや青汁ジュースが、まさしくそれ。
自分たちより豊かな階級が流入してくることで、経済的にも文化的にも変わっていくことに、劣等感、阻害感を募らせる。だから、逆に自分たちが先住者であることでプライドを保とうとする。
そうした屈折した感情が、ハンバーガーごときで熱くなり、新参者と同じタトゥーであることに落ち込み、「ゲットーっぽくしてイキがらなくても」の言葉にブチ切れるマイルズをつくる。
にもかかわらず、その街で2人は引っ越しの仕事をしている。よそ者に家々を明け渡すための仕事から収入を得て生きていくしかない皮肉。

つまり、見た目だけが黒人差別を生み出すのではなく、経済格差、文化的な違い、犯罪率の差がからみ合った結果であることを知らなくては、物ごとの半分しか見ていないことになる。

ところで、この映画のノリのよさは最高だけれど、それにダマされてはいけない。
実は、本当によく作り込まれた映画であることが、よく見ると分かってくる。

写真家の家で、コリンとマイルズが指示されて見つめ合う場面。
いいようのない間があり、写真家に向かって「あんたはイカす人だけれど、これだけは意味不明」で終わる。少々コッケイで、でも妙なシーンだな、で通り過ぎてしまったけれど、後になってみれば、なるほどルビンの壺なんだと気づかされる。
見つめ合う2人は黒人と白人ではあるけれど、壺を形づくる似たもの同士の左右対称なペアに違いない。
そして、ちゃんと相手を見ないといけないと、さりげなく真面目なメッセージになっている。

その写真家が言う。「今は看板ばかりになっているけど、昔は木(オークつまりナラの木)がたくさん生えていた」
木の話題が再び登場するのはパーティー会場。切り株がテーブルとして置かれている。街の新参者が持ち主で「年輪が140年」と自慢する。でも、コリンとマイルズの仲間に使わせない。
さらに、殺人を犯した警官にコリンがラップで怒りをぶつける場面でも。「(黒人は)木みたいに刈られる」「(殺された)奴の年輪(年齢)を数えたか」
そして、壺の話も再び。「俺は壺で顔だ。両方見ろ」あらゆる伏線が、この場面で回収される。
実に緻密に計算された物語。でも、そう感じさせないところが憎らしい。

11歳の時からいつも一緒で、バカを言い合ってきた2人が、3日間の濃厚な体験の中で、直球の本音をぶつけ合う。コリンが警官にぶつけた言葉も、実はマイルズに聞かせる意味があったのかも知れない。
3日間を通してマイルズは、コリンのニガーとしての苦しみ、悲しさに、ようやく本当に思いを馳せたのだろう。ブラインドポインティングは、2人の間にこそあったものだったに違いない。
実は、男同士の友情の物語。救いはそこにある。

マツドン