朝が来るのレビュー・感想・評価
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演者最高なのにもったいない
映画というものは、総じて監督のものであり手柄は監督のものであると私は思う。
しかしその逆も然りで駄作…というより受け容れられなかった作品もまた、監督の責任であると思う。
その視点からこの作品を評価すると、
テーマ性はとても大切で繊細で、
伝えなくてはいけない内容だったにも関わらず、
何がどうしてこんなにごちゃごちゃにしてしまったのか、
ドキュメンタリーを撮りたかったのか、
それともフィクションを撮
りたかったのか、
甚だ疑問に感じた。
才能ある蒔田彩珠を素晴らしい使い方をしたにも関わらず、
脚本、編集がメタメタで、
詰め込みすぎと、浅知恵のミックスジュースという感想しか残らなかった。
終わって脚本家をエンドロールで見つけて目を疑った。
これ、監督がダメにしたのでは?
脚本家の高橋泉は好きな脚本家で、構成力がとても上手な作家のはず。
となると、この仕上がりいったいなに???
前半、蒔田彩珠が出てくるまで全部要らなくない?
そういうのが気になると、
せっかくの素晴らしい展開も感動出来なくなってしまう。
非常に残念な作品。
【家族になる】
多くの人がコメントしてるかもしれないが、エンドロールの最後まで席を立たないでください。
多分、この一瞬のために、この作品を撮ったのではないかと…、持って行かれます。
僕は、この原作が好きで、あっというまに読み終わったのを覚えている。
原作のエンディングは、とても叙景的で、心をものすごく揺さぶられる。
河瀬直美さんの監督で映画化されると知った時は、原作のエンディングをどのよう撮るのか、とても興味を持っていた。
だから、少し期待を裏切られたと感じていたところ、エンドロールが終わって、あっ、やられた、でも、これだったのかと、原作を読んで感じた自分の印象と比べて、改めて感じ方は人それぞれなのだと…考えた。
(以下ネタバレあります)
↓
物語は、不妊と中学生の妊娠という社会問題を扱い、優しさも憤りも、切なさ、虚しさや、悲みがちりばめられ、佐都子にも清和にも、ひかりにもそれぞれ感情移入する人がいると思う。
佐都子とひかりの境遇は一見真逆だ。
子供を授かることが難しい年齢と、早すぎる年齢。
夫が原因の不妊と、相手の不見識による妊娠。
養親と、生みの親。
朝斗を引き取ってからの充実した生活と、周囲の理解も少なく朝斗を手放してからの空虚で押しつぶされそうになる人生。
しかし、この作品を通じて感じたのは、ふたりには、きっと、このふたりだからこそ理解しあえる大きな共通点があったのではないかということだ。
それは、夫の不妊を知っても愛し、辛い不妊の治療を目の当たりにして、自らの子を諦めながらも、ベビーバトンの試みを知り、新たな家族、朝斗を固い決意で迎えたこと。
家族や兄弟など親族に対する心の距離感を抱え、自身の支えとなるような別の家族を渇望してしたこと。漠然とはしているが、こうした葛藤を抱える人は、案外多いのではないか。
清和は、佐都子の良き理解者であり、良き夫だ。
一方、ひかりの愛した巧は、若く、責任感に乏しい。
だが、それぞれが愛している、或いは、愛したという事実に変わりはない。
そして、切望したか否かにかかわらず、ふたりの子供に対する愛情は深い。
ひかりは子供を手放してしまったが、手紙にあったように、なかったことなどには決してできないのだ。
その後、ひかりは空虚な人生を送るようになってしまったように思えたが、僕は実はそうではなかったと思う。
原作では、風俗嬢のコノミが、ひかりに、いつか自分の産んだ子に堂々と会えるように頑張りたいと話し、ひかりもこの言葉に触発されて、身を粉にして働いていたように思う。
映画では、浅見と語らったベビーバトンでの短い生活で、改めて、「なかったことにはできない」想いが強くなったのではないのか。
だから、副次的にだが、自堕落な仲間にでさえ思いやる気持ちも持つようになったのではないのか。
周囲が望もうと望むまいと、我が子は我が子だ。
その後、一連の出来事は、思わぬ形で、そして、ひかりが想定していたよりも早く、ひかりを、この家族に引き合わせる。
エンディングは胸を打つ。
原作は、雨が降る朝、ひとり佇むひかりを、佐都子が後ろから強く抱きしめる。
広島のお母ちゃんだと言う佐都子と、ちょっと驚いて、広島のお母ちゃん?と聞き返す朝斗。
雨雲の切れ間から、朝陽が差し、3人を照らす。
きっと虹がかかるのではないかと思うような光景だ。
ひかりは、家族になったのだ。
映画はご覧になった通りだ。
会いたかった。
ひかりは、家族になったのだ。
家族とはなんだろうか。
興味のある人は原作も読んでみてください。
※永作さん、惚れるわ😁
半分ドラマ、半分ドキュメンタリー
圧倒的な空気感
いい映画では、ある。
(原作既読)子供の母は一人でよいと誰が決めた? 原作では読者の想像に委ねた「育ての母」と「生みの母」との絆を目に見える形で示した映画化、はたしてその正否は?
①題名の「朝が来る」。さて、“朝”は誰に来るのだろうか。佐都子にでもない、ひかりにでもない、そう“朝”は真人君に来たのだ。映画は原作よりそのことを明確に示す。「生みの母」のお腹の中にいたときに一緒に見たのは夕日、そして次に「生みの母」と一緒にみたのは朝日なのだ。朝斗という名もそれを予め意識して作者が選んだのかもしれない。②河瀬直見は映画作家としては日本映画界でも頭ひとつ抜きんでている監督にはちがいない。映画をよく分かっている。ただ、同じ奈良県出身だから応援したいところだが、奈良県を舞台にした映画は何故か観念的なものが多くもひとつ好きになれない。しかし演出力は確かにあって『あん』は素晴らしい佳作となっていた。原作ものの方が会うのかも知れない。そういう意味で期待半分不安半分だった今作
。③前半は原作通りの展開ではあるが映像化としては申し分のない出来。井浦新はフツーの人とそのリアクションとを自然(に見える様)に演じているがこれは実は一番難しいこと。この夫婦像がぶれないことが映画に安定感を与えている。④ほぼ完璧とも言える前半に比べ後半はやや調子が乱れる。原作でも後半の解釈は難しい。映画では浅田美代子の浅見が原作以上の存在感を持って描かれる。同じく「生みの母」になれなかった浅見は家族関係に恵まれず堕ちてしまった娘たちの一時的とはいえ「育ての母」となる。この映画における三番目の『母』である。「時間ですよ」のミヨちゃんが、ノーメイクで慈母のような女性を演じるのに感慨ひとしお。やや乱調が見られる後半だが、ベビーバトンの姿を「ドキュメンタリー番組」の形を借りて描くのは映画的に良い処理方法だと思う。⑤原作では作者は冷酷なくらいひかりを堕としていくのだが(風俗までは堕とさないけれど)、映画はもう少しひかりに対して優しい。それでも突然現れた借金取りに脅されて泣き出す蒔田彩珠の自然な演技が良い。彼女から自然な演技を引き出した河瀬直美の演出は称賛されるべきだろう。⑥脅迫の言葉を伴って訪れたひかりが“本物の”ひかりだとわかってからラスト最早行くところがなくて街をさ迷うひかりを佐都子が見つけるまでの佐都子の心の動きを原作は具体的には描かない。映画は“広島のお母ちゃん”の手紙に一度書いて消された一文の筆圧に気づいた佐都子にその一文を見せることで具現化する。『なかったことにしないで』。ひかりが回りの大人のいう通り(14歳で子供を産んだことを)なかったことにしたら、彼女は普通の人生を送れたかもしれない。しかし、なかったことに出来なかったひかりはきびしい道を選んだ。そのひかりの心情を一瞬で悟り大粒の涙を溢す永作博美の名演。そういう意味からこれは本当に泣ける話なのだ。⑦あと、原作では関東であるひかりの故郷を奈良に変えている。中学生たちが話しているのは関西弁だし、撮される風景にも既視感があると思っていたらやはり奈良でした。こういうところは奈良に住むものとしては嬉しい。
どうかしているぜ日本人!
まず、これを読む人に警告しておきたい。覚悟のない性行為はするな!性行為をして子どもができる事は自然な事で悪い事でもなんでもない。子どもができるかもしれない覚悟なしで性行為はしない方がいい。
子どもができるのは困るが性行為はしたい。そういう性行為はしない方がいい。最近はそういう性行為をする人が増えた。性行為は本当に好きな人とするから素晴らしい事になる。
最近、人のサル化が進んでいるが、予言しておきたい。これからは、優れた人間とサルに人類は二極化されるだろう。快楽、本能だけで生きるサルになりたくなければ、考える人にならなければ。
日本人はここ20年間の合理化、能率主義、個人主義、自己責任論の影響で、心、愛、助け合いの精神がすさんだ。心、愛なくして子育てなんかできるわけない。今後も心、愛の知らない子ども、若者は増えるだろう。愛とは、認める事です。ありのままの自分、ありのままの他者を。君は君のままでいいのだよ!誰かの真似をする必要はないし、自分が自分を認めていれば人からすかれようとする必要はない。
人に好かれようとするよりも誰かを好きになる方が簡単でらくです。
子どもができるまでその人はその子どもの親ではなかった。子どもができて初めてその子どもの親になるのだから、血の繋がりはあってもなくてもいい。子どもは親が作ったのではない、自然が作ったからです。
里親の人は、血の繋がりで悩む必要はない。その子どもの親は、誰がなんと言おうがあなたです。
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