「アートを見る目が軽くなる?」アートのお値段 ワンコさんの映画レビュー(感想・評価)
アートを見る目が軽くなる?
アーティストは総じて寡黙なのに対し、ディーラーやオーナーは冗長でよく喋る。
現代アートの価値について聞かれる前に、質問を極力遮ろうとするかのようだ。
アーティストは総じて自分の作品の価値は底上げされてると認識しているし、当面の資金も必要だし、だが、行く行くは、美術館に所蔵されて、自分亡き後に、再び陽の目を見るような作品を残せれば本望だとさえ思っている。
だが、ディーラーは、美術館や多くの人の目に触れる場所より、選ばれた人のところで相応しい展示方法で飾られるのが、アートにとってもっとも喜ばしいと主張し、値段をドンドン吊り上げようと躍起だ。
アートの値段とは一体なんだろうか。
こんなことは、小学生の時から誰もが抱く疑問のような気もする。
ピカソの「泣く女」を見た時、ああ、これだっら自分も描けると皆んなだって思ったじゃないか。
こんな名声や値段に対するささやかな疑問は、こんなところから、僕たちの中で、ずっと続いていたに違いない。
その後、少し美術に触れ、ピカソのような訳にはいかないと思いつつも、どんどん現れる新進気鋭の若手アーティストに疑問を持つのも仕方がない。
ポロックは、自分のやりたい事は、全部ピカソがやってしまったと言っていたというエピソードを読んだことがある。
その後、ドロッピングやアクションペインティングをリードし、今最も高額で取引される作品を制作したポロックも、実は、生きていたら、それほどの値段ではなかったのかもしれないと思うと、ちょっとショックだったりもする。
そんな事言われたら、過去の偉人の作品だって疑問に思う人がいるかもしれない。
ダヴィンチの作品として近年発見された、エンディングに映される「サルバドール・ムンディ」の4億ドルも怪しいのか?
シンガポールにあるはずの「アイルワースのモナリザ」はダヴィンチ作品としては、疑問点が多くなってきるようだが、シンガポールの企業グループは、これに一体いくら支払ったのか?
もう考え始めたらドキドキしっぱなしだ。
だが、アートの価値なんて値段と比例するわけではない。
誰にだって(そうではないかもそれないが)好きな作品の一つくらいあるだろう。
仮に自分で所有できなくても、美術館に足を運べばいつでも見れるのは喜ばしい事だ。
大学の一般教養の英語の授業のテキストが、「from Giotto to Cezanne」という美術本だった。
フラ・アンジェリーコの受胎告知の解説で、ヴァージンのマリアが妊娠し、処女と妊婦という矛盾を表さなくてはならなかったという説明を読んで、いたく感動したのを覚えている。
その後、バックパッカーをして、フィレンツェを訪れ、このフレスコ画を見たときに、更に驚いたのが、マリアは明らかに戸惑っている表情をしていた事だ。
マリアにはフィアンセがいて、ヴァージンなのに妊娠して、それは神様の子供だと言われ、戸惑わないわけがないのだ。
フラ・アンジェリーコは、神のストーリーを借りて、人間の一瞬の戸惑いを描いていたのだ。
アートは、そんなところに発見や驚きがあって、個人個人の中に価値を生み出すものではないだろうか。
それにしても、ジャスパー・ジョーンズのターゲットは、くれるんだったら、大事にするから僕も欲しい(笑)。
そして、コマーシャリズムから距離を置いて制作に時間を費やした、ラリー・プーンズの作品達の瑞々しいしさを劇場の画面で見たとき、何か気持ちがパッと明るくなる気がして、胸が熱くなった。
あのプーンズ展にいたオバさんじゃなくたって涙が出て出そうだった。
本当に素晴らしいと感じるアートには値段など重要ではないのかもしれない。
特定の美術教育など受けていない、例えば、発達障害の人などが制作するアール・ブリュットは、非常に多くの人々の心を惹きつける。
そういう感動を見つけることが出来れば良いのだ。
アートの価値を値段で減じるようなことがあっては悲しいではないか。