「「ゆるす」とは忘れることでも恨まないことでもない」復讐の十字架 Jaxさんの映画レビュー(感想・評価)
「ゆるす」とは忘れることでも恨まないことでもない
映画はフィクションだが現実にこのような事件が多数会ったことはよく知られている。
キリスト教も教義は立派だが教会組織や司祭たちはマッチョでホモソーシャルな男社会と同じで腐りきっているケースも多い。
オーランド・ブルーム演じる主人公マルキーはその犠牲者である。しかも加害者は逮捕されるどころか野放しで、彼自身幼少期のトラウマの治療も適切なケアも得られず毎日自傷行為にも似た自慰行為を繰り返している。性被害者が被害後にやたらと性に奔放になったりすることがあるが、いわゆるPTSDを患った被害者が陥ることのある「トラウマの再演」である。それだけでなく度々感情的になるのを抑えられず、彼を一途に想う恋人をむやみに傷つけ振り回してしまっている。
被害をやっとの事で告白した息子を信じなかった母親の毒親ぶりもひどい。死んだ母親の前で慟哭するマルキーからは、ロード・オブ・ザ・リングや三銃士のようなキラキラしたオーランド・ブルームはかけらも感じられない。彼の演技の幅に改めて驚く。死んで初めて本音を言うことが出来たのだと思うと見ていて苦しい。幼少期に彼を信じてケアしてくれる人さえ居ればその後の人生もまた違っていただろうに。
ラストには賛否があるだろう。加害者は本来司法できちんと裁かれるべきだし自死を選んだからといって許されることではない。被害者が「許す」といって握手したとしてもだ。とはいえ加害者が司法で裁かれようが死刑になろうが、被害者の受けた傷は無かったことにはならない。マルキーの「許す」という言葉は加害者を恨んでいないということではなく、今まで被害者として苦しんできただけではなく、自分や周囲の人間を傷つけ暴力的に振る舞ってきた自分との決別の表れなのだろう。
「もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。」
結果加害者は頭に燃える炭火ならぬガソリンを積むことになる。ひとかけらは良心があったということだろうか。性犯罪者がみな自分の罪と向き合って自死を選ぶだけの良心があれば世の中どれだけ救われるだろう。コンクリート事件の加害者たちだって野放しなのだ。