「「俺はあんたの救世主なんだよ」」パラダイス・ネクスト いぱねまさんの映画レビュー(感想・評価)
「俺はあんたの救世主なんだよ」
『物語の整合性だけ見ていけば、リアルなドラマとしては破綻している部分もあるが、半野監督によればそれは意図的狙いとか、この作品では物語主導ではなく、映像と音楽によってその瞬間に伝えられる心情、空気感を大事にしたいという。特に台北からシャオエンが暮らす花蓮に舞台を移してからの夕暮れから夜の描写は見事で』云々…
上記はある雑誌での監督のコメント抜粋である。確かにストーリーの状況説明は極端にそぎ落とされている。とにかくトヨエツが演じている役の余りにも寡黙振りが尋常ではない。高倉健よりも台詞がないんじゃないかと思ってしまう程だ。なので一体彼がどんな立場なのかは最後迄不明である。断片的には、どうも実力者の娘とおぼしき女と付合っているのか結婚しているのか(後で調べてみたらボディガードしているとのこと)、その女が殺されてしまい、守れなかった罰として暗殺されることを怖れたので、同僚のヤクザに紹介され台湾へと逃げたという設定で正しいのだろうか?実はその紹介したヤクザが、その女を薬物で無抵抗にして犯そうしたら効きすぎて中毒死してしまったという顛末で、トヨエツはそのことは知らなかった?。一方ブッキーはその娘にクスリを隠して酒に仕込んで提供した。同じく、ヤクザに消されることを怖れて同じように台湾に逃げた。そんな立場の男同士が、ひょんなことから死んだ女に面影が似ている女と知り合い、三人での奇妙な生活が始まる。しかしその実力者の刺客?が追い詰めていくという筋書きである。どんどん周りの関係者が殺され、そして一緒に生活していた女をも毒牙に掛けたのだが、あっさりとトヨエツがその刺客を殺す。ラストは死んだ女と一緒にボートで海へ繰り出したブッキーに、目をつぶってトヨエツは拳銃の引き金を引き、当然ながら命中する訳もなく、物語は終わるのである。刺客というのがハッキリしないのだが、何度もシーンに思わせ振りにヒットマンが、現実とも想像、夢の中に現れ、トヨエツを精神的に追い詰める描写はサスペンスフルである。一つ一つのカットやシーンはアート性が高く、情緒を揺さぶられるのだが繋ぎ合さると何故だかフワフワしてしまう味気のないものに落ちてしまう。音楽も、最初と最後のラテン音楽は絶妙で、台湾の影みたいなものを的確に表現している。まるで外郭は素晴らしいのに、肝心の話自体がぶつ切りになっているような印象なのである。ラスト前のブッキーの告白のシーン等、今までの集大成のような彼の演技力の深さに凄みを感じ、久しぶりのトヨエツのガチガチの硬派の演技は、充分スクリーンからオーラを感じる。しかし、バディもの特有の心の通い合いみたいなものは伝わらない。にもかかわらず、変に表面上気を遣ってあげている部分のちぐはぐさが奇妙。ヌルヌルした質感、生温い気持ち悪さに受け取ってしまうのである。これを意図的に作っているのならば、何を表現したかったのだろうかと訝しがってしまう。あくまでも女は“触媒”としての機能でしかないのは理解出来る。男二人を結びつける媒介者なのだが、それが不自然さを益々膨らませてしまっているのではないだろうか。どちらか、又は両方と肉体関係を持ってしまうとか、なにかしらの深みがあれば、シフトチェンジするのにそれも盛り込まれず…。台湾の匂い立つような暑苦しさ、豚の生肉の臭みや汚れ、そんなリアルな印象は充分感じられた。そして、行なわれていることの残酷さと、人間関係の希薄さと、結果だけが提示されその原因が覚束ない寄る辺無さ。“楽園”のその先のヒントが掴めなかったのは自分の解釈力の無さであろうか、かなり不思議な作品であったことは確かである。ただ、いわゆる“神の目”と喩えられる俯瞰での立場である観客を、登場人物と同じ目線に落下させた建付けであることは気付いた次第である。唐突感と疑問が満載というのは、現実世界では当たり前なのだからそこに目くじらをたてるのは野暮なのだろうw