燃ゆる女の肖像のレビュー・感想・評価
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振り返ってよ
たぶん、永い失恋の話なんじゃないかな。
冒頭の絵、タイトルである燃ゆる女の肖像。
緑のドレスの女は、後ろ姿で描かれている。
最後の劇場で、視線に気付いているのに決して目を合わせようとしないエロイーズのよう。
その後ろ姿をみて、マリアンヌはまだどうしても、願ってしまうんじゃないだろうか。
「振り返ってよ」
でもじゃあ、絵の女のドレスの後ろについた火は、どっちの情念?
マリアンヌの?
エロイーズの?
エロイーズは、あの日二人の思い出の音楽を聴きに、あの日劇場に来た。そして泣いていた。
それでも、たぶんもうエロイーズがもうボロボロになっているであろうあの本の28ページ目を開くことは、ないんじゃないかな。
きっと燃ゆる女の肖像は、劇場から帰ったマリアンヌが描いた絵。
まだ情熱を心に燻らせながら、振り返ってよって、何度も願いながら。
とても良かったです。
静かで荘厳な作品だった。 BGMを殆ど使用しておらず、波や風の音、...
静かで荘厳な作品だった。 BGMを殆ど使用しておらず、波や風の音、絵筆とキャンバスの擦れる音や燃えさかる炎の音などダイレクトに届いてくる。何より2人が交わす息遣いが非常に官能的に伝わった。 音楽の助けを借りずとも、繊細な心情の変化を巧みに表現した演出に凄みと覚悟を感じる。 使われた数少ない音楽〝島の祭りで披露された島民の歌〟が実に叙情的で、これが流れるラストシーンに心を奪われた。
夏
何と言ってもビバルディの四季の夏 この燃える様に盛り上がる音楽がこの物語の主題 寒いのかそれ程寒くないのか・・・・分からない島でのお話 そこに限定している点が二人と召使を加えた三人の関係を盛り上げる 美しい映画、夏以外はあまりにも静かで眠気を誘う場面も 結局両想い?片思い?
芸術的な映画が綴る儚き日々と愛の行方、眠気を取ってから観るべき
芸術的なアプローチから作られた切なく儚いいつかの日々。長く暗いトンネルを抜けると眩しく美しいラストにたどり着くこの作品に、過程を耐えられなかった私にはあまり良く映らなかった。 とことん突き詰められた、アーティスティックなテンポ。焚き火の木々が割れる音、波のさざなみがBGMとなり、淡々と日々を綴っていく。そのなかで芽生える二人の感情は、長いトンネルのように続き、行く先が分からない。平穏でありながら、新しい発見と感情が芽生える過程は確かに美しい。そこを迎合出来なかった私には、ラストまで息苦しかった。眠気もあったかもしれないが、なかなか好感を持てはしなかった。 変わらない日々を感情のみで描くため、ロケーションがあまり変わらないことが意味を成してゆく。優しく進む日々と変化に、屈託を覚えたことが大きい。難しさが際立っていた。
女3人の温かな火
とても良かったので星5つです!今年ベスト級。 女性2人の関係性が主題だと思ったのですが、もちろんそれはありつつ、使用人ソフィも混じった3人の描写がとても素晴らしかった!中盤、3人が対等に(完全に対等かはわかりませんが私には友人同士のように思えた)暮らし、料理を作り合い、ムキになってゲームをし、手を差し伸べ合い、歌い踊る描写は本当に輝かしい日々で泣けてしまいました。どうかこの先も共に幸せに生きて欲しかったけれど、短くとも輝かしい日々に灯した火は彼女たちのその後の人生を温めたでしょう。 予告編からは勝手に重たく辛い物語という印象を受け取っていたのですが、予想を裏切り軽やかで暖かく、その中で生きる女性たちの切実さを描いた物語でした。とてもおすすめです。もう一回観に行きたい。
女性視点の女性たち
予告では寝そうな映画と思った。実際、始まりはうつらうつらだったが…出演している女性の表情、仕草、肌の質感までもが全て美しく撮れていて目が離せなくなる。また、(絶妙ではなく)微妙なアングルで彼女たちを捉え、それがハッとするほど美しい。演出、セリフ、間のどれもが、彼女たちを引き立たせる、息遣いさえ美しい。この監督、さすがです!音楽というか音による演出が殆どないので、映像の良し悪しがこの映画の全てを決めています。 最後にオペラか音楽会で彼女を見かけるシーンがあるが、絵かきの女性が”彼女は私を観なかった”と言ったが、観ていないのは絵かきの女性の方だろう。
恋の先に
近くの映画館でかかってないので、舞浜までやって来た。夜の上映なので、帰りはちょうどランドから流れてきた人で、駅は混んでた。若者は、どんな状況でも、遊びたいんだね。君たちは感染しても軽いんだろうなー。うらやましいっす。中高年は本当に注意します! 危険を犯してまで観に来たよ。良かったよ。満足した。いい時間をありがとう! まず、海がすごい。色といい波といい、世間から切り離された感がある。次に音。波の音、雨の音、暖炉の薪が爆ぜる音、木炭の音、筆の音、落ち葉を踏みしめる音。人が動いて出るものや自然のものなど、これがすごくいい。音楽つけなくても、充分にドラマティック。で、ここぞとばかりに、夜の焚き火を囲んで、不協和音から始まるアカペラコーラス。背筋がゾワっとした。さらにヴィヴァルディ「四季」の夏! 主人公たちは若く、まさに人生においても夏の時期。くー、洒落てる!監督、あなたのシモベにしてください! 最後のシーンのコンサートで演奏された「夏」、音が重くなくてはじけた感じがする。どこの楽団が演奏したのか、クレジットで確認したかったけど、字が小さくて読めなかった。帰ってから調べたら、エイドリアン・チャンドラーというイギリス出身のバイオリニストで、古楽器のアンサンブルグループで活動してるそうだ。音源が欲しくなってきた。 妻を振り返ってしまったオルフェに対する考察。「ヤング・アンド・シンプル」なソフィー。人間の感情を理由とするエロイーズ。マリアンヌは表現者の観点から見る。この時、エロイーズは、芸術家の性を知ったのかもしれない。それでソフィーを描かせようとしたのでは。男性が描けない、思いつきもしない題材、女性ならではの視点。見事なアシストだと思う。 見つめて見つめて、見られて見られて、いつの間にか落ちた恋。お互いに好きだけど、恋だけではどうにもならない。別々に歩むしかない。でも、恋の先に何かがあるかもしれない。時間が経っても、会わずとも、心の深いところに居続ける想い。ソウルメイトだ。そんな人に出会えるって、世の中にそうない。 本筋と関係ないことが気になるタチなので、つい書いてしまう。キャンバスって海水で濡れたらマズいんじゃないの? 真水で洗ったのだろうか。あと、意外に絵の具はちびちび使うのね。やっぱり高価なのか? 風が強い日用の薄いスカーフ、ねじって頭に絡める、あの方法が知りたい。カードゲームのルールはどんなんだ。…わからなくてもいいことだけど(笑) 静かできれいな、美術館のような作品だった。自分はとても好き。
女という性の本質
表現するということは、対象について観察し、考察し、寄り添おうとする事だろう。【形】の把握から、【本質】の理解まで。本当の美しさも、醜悪さも、深入りしなければ解らない。近寄り、共感し、愛で、時に憎む。対象に自己が混じり合い、その落とし子であるかのようにひとつの作品となっていく。そう考えれば、全ての芸術は、恋愛によく似たものであるかもしれない。
「この肖像画は私に似ていない」と娘は言い放つ。本質を突かれて画家は憤る。互いの誇りのぶつかり合い。形をなぞる視線が、内を探る視線に。隠れ見る眼差しが、見つめ合う眼差しに。
【愛とは何か】。言葉でなど語れるものか。感情を揺り動かし、身体を突き動かし、嵐のように呑み込み、波のように去り行くもの。芸術もまた同じ。音楽も、絵画も。わけなど判じる間もなく、心を高みに投げ上げる。
光、陰、色彩。吹き荒ぶ風の冷たさ、暖炉の火の熱、砂の感触。荒々しく響く波音、一心不乱なデッサン音、密かな衣擦れ。濡れた唇、乱れた髪、蝋燭の灯りに浮かび上がる肌の艶かしさ。論理で説くのではなく、表現は極めて感覚的、叙情的。台詞は少なく、けれど鋭く。
情感一杯にロマンスを詠い上げながら、一方で、観察する画家の目のように冷静に。女性の冷遇、自由の抑圧、と、ともすれば社会的倫理的な主張に偏りがちの所を、監督は、女性達を可哀想な被害者ではなく、自立し、逞しく強くしなやかなものとして描く。男達がどうあろうと、女は女として存在し続けるのだと。
画家は信念をもって芸術の道を選ぶ。女主人は、遠方の縁談を選んだのは退屈しないためと豪語する。侍女は赤子に手を握られながら堕胎し、男の裸体を画く事を許されない女画家がその堕胎を描く。女達は夜の帳の下朗々と自由に歌い上げる。そして、画家に啓示を与え、芸術となって永遠を得た娘は、潰えた恋の思い出に慟哭しながら、それでも恍惚と笑みを浮かべるのだ。振り向く事はせず。
女性という性が持つ業、身体と感情、苦しみと喜び。【女】という対象物を、いとおしむ眼差しで見事に描き出した肖像画。
成る程、これは女性監督にしか成し得まい。
油絵
スルメのような作品とでも言うのだろうか?噛めば噛む程味が出る的な。
ただ、キャラクターの内面に寄り添うような構成なのかカットが長い…と言うか深い。なのでその辺に惹きつけられなければ「緩やか」だとの印象が拭えない。
俺は若干、寝た。
なかなかに手厳しい話なのだ。
女性が自らの意思で生き方を選べなかった時代の話で…そこに同性愛の話も乗っかってくる。
結ばれる未来などないのだ。
別離しかない恋情なのだ。
けれども惹かれ合う気持ちは止められない。相手に惹かれれば惹かれる程、悲劇の度合が増すのだ。
それを最後の最後まで秘めていたのは、その刹那を濁したくないとの想いからなのだろうか?
ラストの交わらない視線…アレは偶然の産物なのだろうか?機会は偶然だったとしても「被写体に戻る」って意思が痛烈に伝わってくる絵だった。
鑑賞途中に思うのは「色彩」だった。
衣装やメークは世界観なので当時が反映されてて当たり前なのだけど、動く油絵を目指したと言わんばかりの質感だった。
それに伴い表現されるものは勿論あって…色々と小難しい事を考える。
美術品以外の側面から見た時の油絵とでも言うのだろうか…固定とか、非干渉とか、普遍の価値観とか、色褪せないとか。ノスタルジーな事だけではないのだろうなと思う。そして登場人物達が絶妙に18世紀。油絵の被写体が抜け出てきたのかと思う。
さすがはフランス。
相変わらずのお家芸は健在だった。
■追記
talismanさんのレビューが素敵!
ラストの考察に至極納得。
写真もない時代に肖像を描くということ
予備知識ほとんどなく観賞
こういうフランス映画もたまにはいいじゃないか的ノリです
感想としては
・シンプルでテーマは絞りやすい構成
・音楽がほぼなく集中力維持が大変
・目力ある女優さんの演技に惹き込まれる
・凝ったカメラワーク
色々賞をもらったというほどのインパクトは
感じないもののなかなか印象的な作品でした
18世紀のフランスで婚約の肖像画を任され
孤島にやってきた女流画家マリアンヌ
自殺した姉にもショックを受けている令嬢エロイーズに
最初は目的を悟られぬよう接しながら
少しずつ肖像画を描き上げますが肝心の本人に
出来を認めてもらえず
もう一度描き直す中でエロイーズは肖像画を描く
事を了承します
エロイーズは婚約を望んでおらず状況を少しずつ
理解しながら交流を進め距離を縮めるごとに二人は
(当時としては)禁断の愛に目覚めていきます
エロイーズがそもそも婚姻を嫌がっている理由が
それだったかは定かではありませんが
肖像画を描くという行為が相手を知りどんな人物かを
理解し一枚の絵から人物像が浮き出るよう描き上げる事で
それがきっかけで愛が芽生えてしまったわけです
マリアンヌの製作は捗りますが徐々に花嫁姿の
エロイーズが浮かんでは消えその絵の完成が
何を意味するかをマリアンヌも感じ取っていきます
そして自他ともに納得のいく肖像画が完成したところで
マリアンヌはエロイーズが嫁いで別れなければ
ならない事がつらいとつい吐露してしまいますが
エロイーズは突き放すマリアンヌに失望し
悲しみにくれますがやはり状況的にかなわぬ恋
途中出てきた有名なギリシャ神話のオルフェウスの
冥府下りになぞらえ別れ際の「振り返ってはいけない」
約束に対しマリアンヌはやはり振り返り
花嫁衣裳のエロイーズを一瞬視界に入れ
それ以降しばらく会うことはなくなります
その後マリアンヌは一度目は子供と一緒に絵画として
出会うことになりますがエロイーズの手には
自分の絵を残した本のページが記されており
もう一度オペラで会ったときには目も合わせることは
ありませんでしたがその眼には一筋の涙が伝うのでした
LGBTがどうとかといった話は一切抜きにして
素直にストレートな純愛ストーリーだったと思います
写真のない時代の肖像画というものの意味
音楽がほとんどなく集中力というか眠気が襲ってくる
部分もあるにはありますが頑張って観てみると
色々感じ取れていい作品でした
女たちの心を解き放つ
ジェンダーフリーの風潮のせいか、このところ邦画でも洋画でも同性愛の作品が多く上映されているように感じる。最近では「おっさんずラブ」というテレビドラマまであった。映画では2016年に鑑賞した「アデル、ブルーは熱い色」が最も印象に残っている。その4日前に観たのが邦画の「リップヴァンウィンクルの花嫁」だ。黒木華の演技に舌を巻いた記憶がある。 同性愛は太古の昔からあって珍しいものではない。古代ギリシアでは同性愛が当たり前だったという説があり、カエサルはバイセクシャルで、映画「テルマエ・ロマエ」で市村正親が演じたハドリアヌス帝は同性愛者という話だ。日本では在原業平は老若男女何でも来いだったようだし、江戸時代は男色が日常的だったらしい。 いつからか、同性愛は生殖を伴わない性行為として、キリスト教によって禁止されたり、または国家によっては法律で禁止されたりした。しかし聖職者が実は少年愛者で沢山の少年が児童虐待の被害にあったという「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」みたいな映画もあったりする。 人間の性は個性と同じように、古来から多様なのである。フェチやマニアという言葉には沢山の接頭語がつく。性的な快楽は人それぞれであり、故に相性というものがある。相性のいい相手、言い換えれば同じフェチ、同じマニアであれば性的な快楽は増大し、そうでなければマイナスになる。人が浮気したり離婚したりする理由の「性格の不一致」は主に「性の不一致」なのだ。だから少し前まで結婚式の挨拶では「昼は淑女のように、夜は娼婦のように」という言葉が使われていた。多分いまの結婚式で使うと炎上必至の言葉だが、真実を衝いている言葉であることは間違いない。 国家という共同体の中の個人は、国家に守られている従順な羊の群れで、共同体が何かを禁止したら、それを悪いことだと思ってしまう傾向にある。精神的な自由を投げ出してしまうのだ。日本の男色や浮気を悪と定めて一夫一婦制を導入したのは明治の国家主義者である福沢諭吉たちである。ちなみに国家主義とは国家に主権があるとする考え方で、国民に主権があるとする民主主義とは正反対である。ナチスも国家主義だ。明治維新の国家主義者たちは、国の労働力や兵力を増強するため人口増加策として一夫一婦制を提唱したのであって、国民の幸福を願った訳ではない。 さて従順な日本国民は国家主義者の横暴に従い、一夫一婦制に背く行為を悪としてしまった。同性愛についても一部のマニアックな人の特有のものとして限定的な扱いを受けるようになったのである。「LGBTは生産性がない」という発言をしたのも国家主義者の国会議員だ。浮気が不倫として咎められるようになったのは人類の歴史で言えばごく最近の話なのである。民主主義国家は個性の多様性を認めるわけで、同時に性の多様性も人権として認めなければならない。 民主主義国家フランスには不倫という言葉はない。ミッテラン大統領の浮気や隠し子の報道があっても、それによって大統領が責められることはなく、逆に報道したマスコミの方が「プライベートに立ち入るのはよくない」と非難された。フランスの人々は性の多様性を認め、人間が物や人に飽きることも認めているのだ。 新しいものは誰しも試したくなるが、思い切って試す人と怖気づいて我慢する人がいる。我慢する人は試す人が許せない。不自由な人は自由な人が許せないのだ。他人の浮気を非難する人の心理はそれで、つまりは不寛容で狭量な精神性である。嫉妬や羨望もある。日本ではそういう精神性が支配的だ。だから浮気した有名人が、違法行為でもないし国民に迷惑をかけている訳でもないのに謝罪を強要される。非難する人たちの精神性はほぼ国家主義のネトウヨたちと同じである。日本に民主主義は根付いていないのだ。 本作品はフランス映画である。だから性の多様性が広く認められているという前提の上で作られていると思う。本サイトの解説によると、主人公の相手役となるエロイーズを演じたアデル・エネルは本作品の監督セリーヌ・シアマと交際しているそうだ。レズビアン監督が交際相手の女優を出演させてレズビアン映画を撮るのが普通の時代になったのは、古代の性に対する自由な精神を取り戻したようで、喜ばしい限りである。本作品の美しいレズビアンシーンを非難する人はいないだろう。 18世紀のフランスと言えば、1789年7月14日の市民によるバスチーユ監獄の襲撃事件が有名で、そこからフランス革命がはじまった。本作品はおそらくそれよりもかなり前の話で、貴族による封建主義の支配体制が残っており、女性の権利は認められていない。女性画家は男性を描くことが出来なかったり親が決めた相手と結婚しなければならなかったりする。 殆ど二人芝居のような映画で、互いの会話やアップで映される表情には、性衝動や人格のせめぎ合いや諦めや運命を受け入れる覚悟みたいなものが混ざりあったような、複雑な意識と感情が見て取れる。主人公の画家マリアンヌを演じたノエミ・メルランは、力強い目を存分に生かして繊細な女心を演じきった。対するエロイーズを演じたアデル・エネルは、主演映画「午後8時の訪問者」で見せた冷静さよりも、はじめて胸がときめいた性的な衝動と快楽、それに別れの予感に心が揺り動かされる感情を前面に出して、相手役としての存在感を十分に発揮した。両女優ともに見事である。 こんな時代をこんなふうに生きた女たちがいたという実存的な表現であり、冷たい潮風や固いパンや暖炉の熱が、あたかもその場にいるように感じられた。カメラワークも音響も秀逸だ。世界を実感するためにマリアンヌは絵を描き、アデルは海に入る。歌う女たちのシーンは素晴らしい。焚き火の向こうで火のついたドレスを気にせずすくっと立つアデルが印象的だ。そして音楽。女たちの心を解き放つのは自然と恋と芸術なのだ。ヴィヴァルディの「四季」は名曲だと、あらためて思った。
叶わぬ恋
18世紀フランスの離島を舞台に、望まない結婚を控えた貴族の娘と、彼女の肖像を描くために雇われた女性画家の、生涯一度の恋を描いたラブストーリー。脚本と監督は、思春期の少女の欲望と不安を題材にした「水の中のつぼみ」で注目されたセリーヌ・シアマ。今回も、女性監督ならではの繊細な心理描写を光らせ、昨年のカンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞した。 この映画の背景は、女性が思いどおりに生きられない時代。貴族の娘、エロイーズには結婚の選択権がなく、画家という職業を得たマリアンヌも好きに画材を選べない。そんな二人が、5日間だけ思い通りに笑い、愛し合う自由を手にする。そして、その思い出だけを糧に残りの人生を生きる。限りなくロマンチックで、限りなく切ない恋が、マリアンヌの芸術家のまなざしで切り取られていく。そんな恋物語を、ある逸話や切ないラストシーンを奏でる音色と共に物語全般を通しての演出が見事でした。
最初に思ったのは?
役者の芝居はとてもよく、お嬢さん役の俳優の目線だけで伏線をはるところ(回収も、とてもわかりやすくてよい)や表情の変化だけで語るところなど、なかなかやるなと思わせてくれる。
半面、些細なことが気にかかる。
海を渡るのに白いキャンバスを貼った状態で梱包して持っていくものなんだろうかというのがまず気になる。ロールと木枠を持って行って現地で張ったらいいじゃない。
木炭でやけに精密な下書きを描いて、その線を大切に消さないように塗り絵をしていくという必要以上に形を大事にするような描き方にテーマとの違和感を覚えつつも、ここまで薄塗りなら、こんな粗目のキャンバスじゃなく板に書いたほうが良いのでは?という疑問に・・・(もともと、板に描く設定をキャンバスに書き直してるなら辻褄があうなあ)
そもそも、貴族の肖像画がこのクォリティで許されるのか?などと考えつつみてると、なんとダメだしされて描きなおすはめに・・・
途中の状態を撮れば、発注する絵は1枚で済むからなのか?
肖像画は重要なアイテムなのでもう少し金かけてよかったんじゃないのかなあ?
などとホントに余計なことを考えてしまった。
退屈な美
評判良いみたいなので見てみたが、ただの退屈な作品だった。 画はきれいなのだが、ただきれいなだけ。 例えば、きれいな風景写真を見ているような感じ。 ただきれいなだけで印象に残らない。 配色もありきたりなもの。 茶とエンジを組み合わせればオシャレな感じになるよねーみたいな。 インテリア・ショップのカタログ見てるみたい。 そこには作家の意匠や主張や創作の飛躍がない。 例えば、フランシス・ベーコンの画のオレンジを見たとき、そこにあるのはただのオレンジなのだが、とてつもない美と痛打するような印象と作家の研ぎ澄まされた感性を体験する。 そうした驚きにこそ芸術を体験することの喜びがある。 この作品には、そうした驚きがない。
私的には、テンポが合わないかな
本作品、予告編で見た時、絵にまつわるサスペンス映画なんだろうと勝手にイメージして見に来ましたが・・・・ 私の勝手なイメージだったので、正直裏切られまいた・・・・ 色々と見方はひとそれぞれあるでしょうが、私的には、合わない映画・・・ 内容の方もあるような無いような・・・・お話が大変にゆっくり淡々と進むので、私的にはついて行くのがやっと・・・・ 簡単に内容を話ば、お金持ちの娘の縁談の為に、肖像画を書く依頼を受けた画家が、対象となる女性と向かい合っているうちに、恋愛と言うのとは違い、互いを知る事による親近感を超えた想いと言うのですかね、男性同士で有れば、また表現は変わってくるのですが、女性同士なら、このような展開になるんでしょうね・・・ しかし、その感情変化などが、本作品のテンポや作り方で、私的には、その変化の過程が掴みにくいかな・・・ 景色み綺麗だし、出てくる女優さんも大変に綺麗ですが、私的には、少し合わない映画だったかな・・・
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