「描くこと、振り返ること=想い起こすこと」燃ゆる女の肖像 abokado0329さんの映画レビュー(感想・評価)
描くこと、振り返ること=想い起こすこと
セリーヌ・シアマ監督作品。
18世紀後半のフランス。女性画家のマリアンヌは、伯爵令嬢のエロイーズの肖像画を依頼される。肖像画を描くのはエロイーズが結婚をするからである。姉の自死が運命づけるエロイーズの未来。二人は「肖像画」を描くことで接近していく。
本作では「描くこと」と「振り返ること=想い起こすこと」が象徴的に描かれている。
描くことは本作のマリアンヌの職業であることは言わずもがなである。ただし描くこと、特に肖像画であれば、対象≒他者をみつめ、「線」を引かなければ不可能なのである。〈私〉が〈他者〉をみつめることで、好意を寄せたり、理解をすること。そのことが「描くこと」に表象されているのである。しかしそれは「死」も意味してしまう。描いてしまうことは、他者や好意を過去に追いやる。それは決して現在に継起しない死するモノである。そしてこのことは「振り返ること=想い起こすこと」とも関係する。「振り返ること=想い起こすこと」は、オルフェウスが冥府から妻のエウリュディケーを連れ戻す際に不安で振り返り、死んでしまったことに言及され、意味づけされる。つまり「振り返ること=想い起こすこと」は、現在に他者が存在しないことが不安であるためにされることである。振り返った途端、他者は過去になり、死へと向かう。このように「描くこと」と「振り返ること=想い起こすこと」は死に近接する事象である。
しかし私はこの事象のラディカルな価値を本作では示していると思うのである。
他者としての女をみつめることや描くことは、18世紀のフランスでも現在の日本ー西欧化される世界ーでは男の領分にされている。さらに女、特にヌードを描くことは宗教的な大義名分や芸術の崇高さによって正当化されてきたが、そこには性的な搾取が多分に含まれてきた。
そんな社会の中で、本作の「描くこと」はラディカルである。女のマリアンヌが女のエロイーズを描き、またマリアンヌの肖像画をエロイーズに渡す相互性、マリエンヌのヌード描写をヘテロセクシュアルな恋愛の文脈から逸脱させることは上述の常識とは違うのである。
常識は社会規範や法によって形作られる。本作は法=社会規範=常識を逸脱させながら彼女らを描いていくのである。
「法」の逸脱は、ソフィの中絶でも象徴的である。中絶が違法とされた時代、中絶を遂行することは彼女らが文字通り死を賭けた行為であった。それは同性愛も然りである。しかしこの死を賭けた行為は、マリエンヌやソフィ、エロイーズにとって、セクシュアリティや階級を超えて、女の連帯を可能にさせるのである。
彼女らは「法」に立ち向かい、逸脱しようともエロイーズの肖像画は完成し、エロイーズは結婚してしまう。
エロイーズは悲劇的な結末を迎えたが、最愛の人に肖像画を描いてもらったから幸せだった。
そんなことを私は言えないし、言ってはいけないと思う。男によって構成させる「法」は依然として存在しているからだ。この「法」が変わらない限り彼女の死を美化させてはいけないのである。「法」は変革可能である。それは中絶が容認されたように、同性愛が社会的承認を受けるように。しかしそれは今なお政治闘争のさなかにある。それなら私たちは、対象≒他者をみつめ、他者や「法」を描き続けなければならないのではないだろうか。そのためには「描くこと」や「振り返ること=想い起こすこと」が必要だ。それは死に近接している。しかしそれは死するモノを現在に回帰させ、未来を想像/創造することも可能にするのではないだろうか。それが「描くこと」と「振り返ること=想い起こすこと」のラディカルな価値ではないだろうか。
「燃ゆる女の肖像」。それはマリアンヌがエロイーズをみつめ愛が発現した瞬間だ。と同時に女は燃えている。今も燃えている。「燃ゆる女の肖像」をみつめる私たちは、何を描き、振り返り、想い起こすのだろうか。本作もまた私たちをみつめている。