「「わたしは…」には及ばずだが、ありがとう、ケン・ローチ監督!」家族を想うとき KENZO一級建築士事務所さんの映画レビュー(感想・評価)
「わたしは…」には及ばずだが、ありがとう、ケン・ローチ監督!
私の映画人生の中では
「わたしは、ダニエル・ブレイク」
は大変な名作で、大いなる期待の中で、
ケン・ローチ監督のこの次回作を観た。
しかし、「わたしは…」に続くテーマ自体の
社会的価値は別にして、
映画自体の出来は残念ながら
「わたしは…」のレベルに及んでいない
ように思えた。
原因はこの家族にもたらされる困難が
家族自体に起因する要素のウエイトが
高過ぎたり、突発的事件を絡め過ぎ、
社会的観点性が薄まってしまったため
と思う。
例えば、長男の暴力事件で
警察官からのせっかくの貴重な諭(さとし)
にも係わらず、
彼がまだ親に反抗するのは、
実は妹が家族の時間を得ようと
車の鍵を隠したエピソードを作るため
のように思えてしまうし、
主人公が仕事中に強奪犯に襲われるシーンは、
都合良くストーリーを繋ぐためと見えてしまい不自然だ。
また、ラストシーンでの骨折しているかも
知れない中で仕事に向かおうとする主人公、
問題提起にとどめを刺そうとする
ためだろうが、
やはりそれもリアリティを欠いてしまった。
逆に「わたしは…」のような、
主人公が蒔いたヒューマンな種を
感じられたように、
例えば主人公の妻からの怒りの電話を受けた
宅配の責任者が、
主人公家族に理解と救いの連絡をしてくる
などのシーンが欲しかった。
彼もある意味、非人間的システムの被害者
な訳で、
その彼が最後まで効率論だけの人間のまま
全く変わらないのでは
数多く登場する意味が薄くなって
しまわないだろうか?
結果、
社会構造の矛盾に対抗出来るのは
家族の絆
だけしか無いような展開は
「ダニエル…」からは後退してしまった
ようなイメージだ。
子供達の将来に希望の伏線は設けたものの、
「わたしは…」で感じられた社会的な希望
には繋がらず、
ストーリーのリアリティ不足からも
感動が薄くなってしまった。
この作品では社会への怒りが
少し空回りしてしまったような
ケン・ローチ監督だが、
「わたしは…」を体験出来ただけでも
私の映画人生の記憶の中に
名監督として刻むことが出来た。