「喪の作業(グリーフ・ワーク)の「終端」としての「風の電話」」風の電話 talkieさんの映画レビュー(感想・評価)
喪の作業(グリーフ・ワーク)の「終端」としての「風の電話」
健康にとって「孤独はタバコよりも有害」という言い回しがありますけれども。
悲哀(グリーフ)からの立ち直りにも、孤独を避けて、人と人とのか関わりを築くことが、やはり不可欠なのだろうと、評論子は思いました。
本作を観終わって。
ちなみに、日蓮宗の法話に、こんなものがあるようです。
とある女性キサーゴータミがお釈迦さまのもとへ来て、亡くした幼い子どもを生き返らせてくれという。
お釈迦さまは、ケシの実をひと粒、一度も死人を出したことのない家からもらってくれば、その子を生き返らせるという。
早速、キサーゴータミは町へ行き、ケシの実を求めて家々を尋ね歩く。
ケシの実はどこの家にもあるのだが、一度も死人を出したことのない家は一軒もない。
そのことを知って、死者を出すこと=悲しみを経験した者は自分だけではないことに、ようやく彼女はは気づいた。
(日蓮宗尾張伝道センターのウェブページで紹介されている法話を要約)
そして、そういう他者との関わり(と、その関わりから得られる新たな気づき)が、喪失からの立ち直りの作業=喪の作業(グリーフ・ワーク)ということなのだろうとも、思います。
(上掲の法話で、キサースゴータミにとって、ケシの実を求めて町の家々を訪ねて歩いたことは、実は、お釈迦さまが彼女に与えた立ち直りのための喪の作業(グリーフ・ワーク)だったのではないかと、評論子は思います)
ちょうど、マウスピースからトランペットに吹き込まれた息は、最初は単なる共鳴音として抜差管の壁面に何度も反響しながらその中を進み、最後にはベル(開口部)から、初めて「音色」として、空間(この世の中)に放出されるように、他者との人間関係に何度も反響し、あるいは反響されたりしているうちに、最後の最後には、気づきを得た「新たな自分」として、喪の作業(グリーフ・ワーク)から開放される―。
これを本作になぞらえて言えば、そのトランペットのベル(開口部=放出口)に当たるものが、言ってみれば、本作の「風の電話」なのだろうと思います。
(風の電話のようなものだけを作ってみても、その前段に当たる抜差管の中での反響のプロセスが欠落していれば、グリーフ・ワーク(喪の作業)としては、体(てい)をなさないのだろうとも思います)
不幸な震災で、父を母を、そしてたった二人の兄弟だった弟まで失ってしまった春香でしたけれども。
やはり、同じような痛手(悲哀、喪失)を経験している公平や森尾との出会いを通じて、その痛手から立ち直っていく姿が、心には何とも温かい一本でもありました。
そして、じっくりとそういうプロセスを経た最後の最後に、思いの丈(心情)を素直に吐露(とろ)することで、人は悲哀や喪失から立ち直ることができるのでしょう。
その意味で、本作の「風の電話」は、そういう喪の作業(グリーフ・ワーク)の終端としての意味づけがあったのだろうとも思います。
評論子には、充分な佳作だったと評したいとも思う一本でした。
(追記)
上記のとおり、本作は、春香といろいろな境遇の人々との出会いがエッセンスになっている訳ですけれども。
しかし、最初の妊婦さんとの出会いは、春香にとっては、小さくはなかったのではないかと、評論子は思います。
(被災して)何らかの傷を心に受けている人々との出会いが、春香にとっては喪の作業(グリーフ・ワーク)」としては太宗を占めることは疑いがないのですけれども。
しかし、いちばん最初の出会いでもあり、(被災して)何らかの傷を心に受けている人々とは全く異質の立場であって…。
促されて彼女のお腹に触れた春香は、「命の胎動」をリアルに感じ取っだろうことは、疑いのないことでしょう。
そのことは、後の春香にとっても、決して小さな体験ではなかったことと思いました。
否、最初に妊婦さんとの出会いを配置した本作は、構成的には優れていたとも、評論子は思いました。
(追記)
それにしても、本作の登場人物は、食べること、食べること―本当によく食べていました。
考えてみれば、食べることは、とりも直さす、そのままイコールで「生存に必要な栄養素を経口摂取すること」。
これ、すなわち「生きること」「生き延びること」を具象する所為と、評論子は受け取りました。
やはり亡くなった者を思い出し、偲ぶことができるのは、生き残った者にしかできないこと。
(誰のものであったかは失念しましたけれども。本作中にも、そんなようなセリフがあったことと記憶します)
そして。生きている以上は、ちゃんと食べなければならないとも、改めて思い直しました。
その点でも、評論子には、印象に残る一本でした。
talkieさん、共感ありがとうございます。・_・
>日蓮宗の法話
" 悲しいのは貴方だけではない " が
" 悲しいのは自分だけではない " に
そう自分が気付くことで初めて受け入れられる感情というのが
確かにあると思います。そして、自分自身で " 気づく " のは、
これがなかなか難しいかと。
説法みたいな沁みるお話でした。…って
説法の引用なのでしたね。@_@;
(※冗談抜きで、いいお話だと思いました)

