「今の世界をファンタジーとして紡ぐ」鹿の王 ユナと約束の旅 つとみさんの映画レビュー(感想・評価)
今の世界をファンタジーとして紡ぐ
科学と信仰の対立、民族対立、鹿の王の振る舞い。そしてファンタジー。これらが相互に干渉しながら成立する物語はかなり面白かった。
ここにきて評価が低いことに驚いたね。
映画の場合、特にアニメ映画の場合、大きく分けて2つに分類出来る。大人の鑑賞に耐えうる子ども映画と、子どもも観ることが出来る大人映画だ。(厳密にはどちらでもない作品も多いが)
本作は後者なわけで、つまり難しくて分からなかった人が続出したんだな。お子様向きじゃないのは明らかで、まあ仕方ない。
アカファ人の土地を侵略せんとする王国(王国人はツオル人であってる?)
互いに君主制なので王同士の争いとみることもできるが、結局は、黒狼熱のこともありアカファ人とツオル人の対立なのだ。
アカファ人とツオル人を分けるものとは何だ?そこには「呪い」で済まされる黒狼熱に罹る者と罹らない者だ。突き詰めれば信仰の違い、対立だといえる。
医術により人を救いたいホッサルは「呪い」などという非科学的な差異を認めない。信仰の違いによる違いなどないのだ。
しかしツオル王、ツオル人の国はそうは思っていない。直接的に言及されるわけではないが、野蛮なアカファ人が野蛮な黒狼熱を生み出しているとさえ思っている(実際間違いないでもないところが面白い)
つまり、ツオル側の感覚では自分たちは文明的でアカファは非文明的だと下に見てるんだな。
信仰の違いによる民族対立が権力者同士で行われている中で、そこに暮らす人々は互いの信仰を害することなく愛し合う。幾組ものアカファ人とツオル人のカップルがそれを証明する。
「呪い」という名の信仰の違いによる差異の否定。この、権力者と民の間にある感覚のズレが面白い。
見た目も言葉も同じ人間に民族の違いはない。つまりアカファ人とツオル人は同じだと暗に言っているようだ。
冒頭の、黒狼熱による死者が出たシーンで、ホッサルが死者に対し祈りのポーズをとるところがいい。
おそらく信仰心などないホッサルも、信仰そのものを否定しているわけではないのだ。私たちが仏教徒でもないのに手を合わせるのと同じ。
まあこの場面は、信仰心篤いツオル人の中で穏便にことを進めるためととれなくもないが。
それでもしかし、少なくともホッサルがツオル人の信仰に対して否定的ではないことだけは分かる。科学を信奉するホッサルでさえ神の否定はしないところがいい。
もう結構長くなってしまったけれど、やっと主人公ヴァンのことを書ける。
ヴァンは妻と子を亡くし、ある種の絶望感から独角として戦場を駆けた。死に場所を求めるように。
結果として独角は英雄視されるが、ヴァン本人は崇高な理念などないただの死にたがりの行動を美化されることに否定的だ。
冒頭、ヴァンは一人のツオル人を庇って独房に入れられる。ヴァン本人も気付いていないが彼は基本的に善人で、自分に不利益が生じたとしても誰かを助けたいと考えるような人なのだ。これがのちに「鹿の王の振る舞い」に繋がるのだが、ヴァンはまだ分かっていない。
他にレビューで書いている人もいるが、観ている最中はヴァンの中にあるユナの特別さが薄いなと思っていた。簡単にいえばヴァンがユナのために必死になる理由が分からないのだ。しかし最後まで観終わると、これで良かったのだと分かる。
ホッサルに、ユナはどんな子ですかと問われたヴァンは、細かい色々は覚えていないが「手がペタペタしている」と答えた。これだけで特に印象的。
多くの場合、どんな子ですかという問いには、優しいとか活発だとか内面のことを話す。しかしヴァンはそうではなかった。
このときヴァン本人も少し気付いたのかもしれない。ユナに対して特別な感情を抱いているものの、ユナが特別な子というわけではないことに。
例えば、親が我が子を守ろうと命をなげうったとする。これって鹿の王の振る舞いといえる?もちろん違う。ただ親が子を護ったどこにでもあるごく普通の振る舞いだ。
つまり、特別ではない子を護ったことに意味があり、それこそが「鹿の王の振る舞い」なのだ。
エンディング、鹿の姿になるヴァンに不満な方がいるようだ。
しかし、独角として戦い英雄視されることに疑問を感じていたヴァンの心境の変化表現なのであったほうがいい。
独角として戦ったこと、ユナを護ったこと、この2つに違いなんてない。あるとするならばヴァンの気持ちだけだ。
自身のワガママからくる行動と思っていたことも見方を変えれば、ただ単にヴァンの中にある本質でしかないのだ。坑道でツオル人を庇ったように。
そのことに気付いたヴァンは、姿を選べる魂だけの世界で、片角の折れた鹿の姿となる。独角として戦った自分を誇れるようになったのだと思える。
かなり面白くて、何がそんなに面白いかというと、描かれている内容が現代の社会にも通じるものがあるからだ。
ファンタジーという舞台を使い比喩的に現代社会を写す。まあ比喩ってほどでもなくそこそこストレートではあるが。
しかしその巧妙さにどうしても感心してしまうのだ。