「作品の評価とは。」ドラゴンクエスト ユア・ストーリー アレルさんの映画レビュー(感想・評価)
作品の評価とは。
DQ1〜7までリアルタイムでプレイし続け、公式の攻略本も一度クリア後(当時はゲーム自体の発売よりかなり後に発行)に楽しみにしながら待ち、やり込みする、とかなりヘビーに楽しませて頂き、その中でDQ5はSF、PS、DSとそれぞれ2〜300時間はプレイしてきた一番のお気に入りです。
その立場で、この映画も発表当初から楽しみにしていました。封切り後しばらく観に行く事が出来ず、只々、封切り以前の評論家であり、観覧後の一般の方々の酷評がされている状況で、ネタバレ内容は見ずにやっと観に行く事が出来ました。
観終わった直後の自分の率直な感想は、『何故?』でした。その『何故?』の矛先は酷評に対して、です。
観覧後、改めて酷評の内容を確認しました。そこで感じたのは、只々ゲーム内の冒険活劇の模倣を求めていた人と、そこに原作者や監督の意志を感じ取った人にあからさまに別れている事でした。結果、残念ながら前者の割合が圧倒的だったので、封切り直後から2点台となってしまう低評価を叩き出してしまっている、と。映画評論家と言う肩書を持っている人もこぞって、記事が面白くなる様に、閲覧数が上がる様に、作品の意図を理解しないままアップされている状況であったと思いました。
普通にプレイしても30時間は掛かるストーリーを100分程度にまとめるのは至難の技です。当然かいつまむ必要と、されでも観せたいシーンをどれだけ濃く出来るか、かいつまんだ部分との擦り合わせ、この作品においてはゲーム上で明らかに分岐されている部分を各キャラを立たせながらどう折り合いを付けるか、その上でプレイヤーが納得をする内容にもっていくか、原作がある作品はどう作っても原作ファンにとって不満点が挙がるの仕方が無い所でもあります。
山崎監督は4年前からプロデューサーに打診されつつも、この偉大な作品を数多のプレイヤーのプレッシャーを感じて断り続けていたそうです。それでも、熱意あるオファーとゲーム本編と戦えるエンターテイメント作品として完成されられるかどうか、自問自答の中で引き受けた、との事。そして、原作者である堀井さんと一つのセリフの為に激論を交わした、とも。
1の頃から週刊少年ジャンプ関連の書籍、その他記事を通して、堀井さんのゲームに対する考え方、捉え方を様々な形で拝見させて頂いた立場で観ると、この映画はズバリ考え方ものを表していると思います。
堀井さんはゲームの世界はあくまでもゲームの世界、ただそこにどれだけ自分(プレイヤー)が入り込めるか、と言う事を大切にしている方です。ドラクエにおける主人公のセリフが無い(=話している相手のセリフを受け取った後に感じる事はプレイヤー次第)と言う点や、ポートピアにおいてヤスとのやり取りだけでストーリーが進んでいく点が、正にそれを表しています。その上で、ゲームの中で過ごした自分も人生の一部になるように、と作られてきました。作る際の容量の限界が存在して、テキストの一文字をどう削るか四苦八苦した時代から、です。
作品を観る感想として、こうであって欲しかった、と言う考えは少なからずあっても良いとは思います。只、それをそのまま作品の評価に直結させてしまう、作り手の評価を下げる事に繋げてしまうのは、あまりにも乱暴です。そして、作り手の評価にするにしても、今回は山崎監督に酷評が集中していましたが、この『返し』は当然、原作者である堀井さんの表したかった事も濃密に組み込まれています。普通の冒険活劇が観たかった、は視聴側の希望であり、それはそれで良いとは思いますが、それに合わなかった作り手の考えを完全に否定して低評価として残すのは、様々な試行錯誤をしながら生み出した『創作物』に対して失礼とだと思います。何も考えずに商業的に作る作り方は、山崎監督、堀井さんにの過去の経歴から考えてもあり得ません。
この映画では冒頭に子供時代がゲーム画面を用いてストーリーを強制的に進ませています。これはラストの『返し』に対する伏線になっていますが、それすらも気付かないまま評価に繋げている方も多々見受けられました。映画好きな立場である身からしても、この低評価はあり得ないと思います。そんじょそこらの費用ばかりかけられたメジャー映画よりは、確実に作り手の想いが込められています。
この2点台と言うなかなか無い低評価により本来観て頂けていた方々に正当評価をもらえる機会が無くなる可能性がある事、数多の名ばかりの評論家を含む世に合わせた作品の評価する行為が蔓延する事、この作品によって本当に危機感を感じました。