「ようやくわかりました。」ドラゴンクエスト ユア・ストーリー レノモンさんの映画レビュー(感想・評価)
ようやくわかりました。
この映像作品が面白くない理由がようやくわかりました。
映像、演出、音楽。どれも及第点もしくはそれ以上のものが揃っているのになぜ面白くないと感じてしまうのか。それはやはりラストの展開でしょう。
しかし、多くの人がラスボス=ミルドラースの登場が唐突だとか「大人になれ」に腹がっ立ったなどという理由で批判しているのではないのです。
それはミルドラース、ひいてはミルドラースの製作者(以下製作者)の幼稚さにあると思われます。
ミルドラースは自身が生まれた経緯について「製作者はこの作品が嫌いだった」「ただ気に入らないから」「面白半分でやった」という幼稚な動機をあげます。
つまり製作者自身が「大人になれない子供」だったのです。
視聴者からしたら「世界を滅ぼす親の仇」(ゲマ)という存在のラスボスから「自身のわがままでイタズラを仕掛けた子供」(ミルドラース)というラスボスへ変化したわけです。
これでは物語は盛り上がりません。
映画を見て、あの場面を見て、批判している視聴者の人たちは怒っているのではありません。冷めているのです。引いているのです。世界を巻き込む壮大な話しのラストで子供のわがままを聞かされて白けたのです。
子供のイタズラに本気で怒る人はいません。本気になって、同じ目線で怒るのは同じ「子供」です。大人は本気で「叱る」べきなのです。注意を促すべきなのです。
だというのに主人公は「ミルドラース」に対してただ抵抗し、用意プログラムされたプログラムで「ミルドラース」を「倒した」だけです。これではいけません。
せめて「製作者」の思想、思惑を否定し、自身の力で倒す。そして、「製作者」に自身の思想と力を認めさせなくてはいけなかったのです。
この展開に喜ぶのは周囲の空気に流されやすく雰囲気にのまれやすい人か、もしくは製作者同様に幼い精神(同じ目線)で映画を見ていた人だけでしょう。
ラスボスとは物語における「乗り越えるべき最大の敵、最後の試練」であるべきです。
それが「大人になれない子供」であってはならないのです。愉快犯であってはならないのです。乗り越える必要などなく、すでに乗り越えているからです。
ラスボスが幼稚な存在だった。これが多くの批判の核心だと思います。
ではこの物語が面白くなり、かつテーマを損なわない展開とは何か?
一例としては
ゲマを倒すまでは映画のまま→ゲマ最後の力でが世界を停止→ゲマが世界の在り方を解説し、ミルドラースに後を託す→ミルドラースが登場。このミルドラースは製作者自身→ミルドラース=製作者が介入の理由を話す(この装置をドラクエではなくFFでやりたかったみたいな理由でも可能)。この世界を壊す「必然性」が明かされる→主人公が消されそうになる→この時、今まで主人公と接してきたキャラ(AIであると仮定)が主人公と触れ合ったことで己の意思で創造主=ミルドラースと戦うことを決意し、バックアップデータを経由して復帰。全員でミルドラースに挑む→ミルドラースがゲームが意義のある存在だと認め、倒れる
このような形になればラスボスをちゃんと倒したことになり、かつ今までの冒険が無駄じゃなかったということが映像的にも伝わると思います。
この作品が面白くない理由を知ってほしいと長文を重ねて申し訳ありません。しかし、多くの人に「この映画は出来損ない」ということを知ってほしかったのです。
言わるまでもないとこだとは思いますがね。
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コメントありがとうございます。
監督という仕事に手腕は必要ないんですかね?山崎貴という人の人生はあんなメッセージしか残せないほど薄っぺらいんでしょうかね?
劇中内のキャラに自らの主張を発現させる杜撰さ。その主張も大人になれない子供の戯言と逆ギレ。
ガキならさっさと義務教育からやり直してこいといいたい。
ルパン三世の映画も手掛けるようですがそれを最後に監督生命断ってほしいですね。
どうも、お邪魔いたします。
すべては「この結論」にかえりますね。
数多あるレビューの中で最も的確な表現でした。
例えば、夢を与えることは大事な事です。
はるか昔のクリエイター、エンターティナーはそれを知っていましたね。
今は適当且ついい加減なポリシーで自己語りを介在して客を振り回す幼稚な愚か者が大手を振って罷り通る時代です。
「ドラゴンクエスト」は昭和の時代から遊び手が限定されたCRPGを一般的たらしめた偉大な名作です。長い歴史の中で時に躓く事もありましたが、この昭和すらも理解しない映画の前ではすべてが偉大でした。
監督・山崎貴は精々自分の卑小な生きざまにおびえつつ名を売ってればいいでしょう。
我々は次なる名作を夢見て心を膨らまして行きましょう。では。