「自分で考えて、物語を噛みしめよう。」ドラゴンクエスト ユア・ストーリー ハリセン・フォードさんの映画レビュー(感想・評価)
自分で考えて、物語を噛みしめよう。
まぁ、レールの上を進むだけのゲームに慣れすぎて、自分の頭で物語を解釈できないお子さまにはキツかったわな。可哀想に。
この映画を楽しむ方法を伝授しよう。
1.キレイなドラクエの世界のCG映像を観に行ったと思って割り切るか、
2.もちまえの妄想力で補完して物語を自分で意味のあるものとして解釈するのだ。
私としては上の2.こそがロールプレイングの基本的行為なのだと考えているが、そもそもドラクエは本来自由度が極めて高いはずのロールプレイングを、16ビットという制限の中で再現しただけのものだ。どうしても物語の自由度には制限があった。(それでも当時のビデオゲームとしてはとても画期的だったとは思うが。)
ビット数の関係で、ドラクエ5は嫁以外のラストは二つ。ゲームオーバーかラスボス撃破エンドである。どっちの嫁を選んでも、冒険をあきらめない限りはラスボス撃破エンドしかないのである。
そのせいで、この作品のファンは『この物語は、ラスボス撃破エンドでなければならない!』という強い考えに固執してしまう悲劇が生まれた。
物語の結末や大前提が、自分の思ってたモノと違うと分かったとして、皆はどうする?
最低評価の人たちは恐らく『何もしなかった。』ただダラァーっと映画を観てただけだから、最低評価になるんだと思う。娯楽なんだからただ何も考えずにボケーッと観てればいいと油断していたのだ。
君たちが現実に引き戻されたことで映画を恨み始めた時、映画の中の勇者はあきらめずに戦う手段を模索していた。あのモンスターを怖がって旅立ちを尻込みしたヘタレだった子が、である。
ここに、勇者と鑑賞者との間に、こころの成長具合やものの考え方に乖離がはっきりと生まれていただろう。これも、君たちの怒りの原因なのだろう。
みんなが原作で知ってる通りの物語に沿ってさえいれば、みんなが勇者でいられたのに、唐突なオリジナルシーンで我に返されたことで、勇者へのコネクション(感情移入)がこれ以上出来なくなってしまった。この憤りはある意味自業自得のものだ。自分自身が勇者になりきれていなかった故のものなのだから。この情けなさを、なにやら作品への批判として怒りで隠しているように思えてならない。
自分で考えて、メッセージを噛みしめて吟味するのも、RPGプレーヤーとしてのスキルだと思う。せっかくお金を払って観に行ったのだ。満足できなければ、出来るように頑張ってみることだ。
ここからは私の妄想で補完するストーリーだ。
ラストシーン、頼もしかった味方はすべて時を止められ、自身もただの操り人形(主人公用キャラクター)と知らされる。圧倒的な絶望に包まれてなお、勇者はRPGの主人公として極めて的確に動いた。『おまえはただのつくりものだ』と知らされて尚、イレギュラーに対して最後まであきらめず、倒せるはずのない脅威に立ち向かったのだ。
これはメタ発言の『おまえはプレーヤー用キャラクターなんだ』という枠を越えた行動だ。素晴らしいRPGプレーヤーの魂が宿っていたとさえ思えた。実際のプレーヤーの『人となり』が冒険を通して、容れ物であるキャラクターに憑依した。それがプレーヤーの手を放れて尚、本物の勇者として振る舞い、脅威を打ち払ったのだと思う。こう考えれば、この物語、愛したキャラクターにものすごく感情移入出来ると思う。
この原作、しょせんは「あらかじめ用意されたレールに沿ってストーリーを消化してるだけ」だった既存のRPGに、ちょっと嫁の選択肢を与えた程度のゲームだったから、プレーヤーの自分で考える力がほとんど育たなかったのだろう。だからこそ、自分の思ったとおりのストーリーじゃなかった!サイテーだ!と喚くのがこんなにも多いのだというのが私の持論だ。
こういうプレーヤーにはなりたくないものだ。
このゲームは、こうあるべき!みたいな凝り固まり方は、ぶっちゃけ端から見てて心が偏狭で醜い。ゲームばっかしてると大人になれないぞ!という凝り固まった感情と、いい勝負だと思う。
原作知らない人も観てるんだから、多少の改変も楽しもうとしてみてはどうか。