「DQⅤをプレーしたことある別の監督が作っていたら満点になり得る作品だったという意味で2」ドラゴンクエスト ユア・ストーリー たくわんさんの映画レビュー(感想・評価)
DQⅤをプレーしたことある別の監督が作っていたら満点になり得る作品だったという意味で2
キャラのCGと戦闘は悪くなかったから0評価ではないが、全体的に脚本が酷すぎた。
調べてみて、監督(脚本)がDQⅤを未プレイと聞いて激しく納得した。
※詳細なネタバレもあるので、未視聴の方はブラバ推奨です。
まず、原作未プレイを置いてきぼりにする端折りっぷり。
では、原作ファン向けだったかというと、原作ファンの皆さんがお怒りのとおり、未プレイ監督の独りよがりな意見の押しつけで、誰向けの作品なのかわからない。
かろうじて見れる映画になってたのは舞台がDQⅤで、DQの音楽使っているから音楽が良いだけで、この映画特有の部分、監督がいじった部分はことごとくダメだった。
多くの皆さんがラストがダメだったというけれど、それだけではないと思う。
逆にラストが納得できるものだったから評価5というレビューもみるけれども、その評価は誤っているとしか思えない。
その理由はラスト以外の点も問題だらけである上、ラストの部分もヒューマンドラマとしてみたとしても、矛盾だらけの酷い脚本だったからだ。
まず、ラスト以外の問題点だが、
たとえば、主人公がビアンカに「俺の背中を任せられるのはお前だけだ、レヌール城でもそうだったように」と度々、端折った部分を無理矢理に補完する説明口調なセリフが出てくる。
開始早々すれ違っただけの関係のフローラが主人公に一目ぼれしたり、幼なじみ扱いされて主人公が行方不明の間、夜な夜な泣いていたという謎の改変、サンタローズで主人公を見たサンチョが突然泣き出してゲーム後半再会時のセリフを言ったり、ヘンリーが奴隷になった後も生意気なままだったり、かと思ったらピンチになったら駆け付けるだのご都合主義なことを言い出したり、
序~終盤まで要所要所で視聴者を白けさせるセリフや改変が出てくる。
ここまで酷い脚本だったのはひとえに原作を遊んだ経験がないからで、もしそうじゃなかったらこうはならないと思う展開ばかり。
特に私の中で、最も「そうはならないでしょ」と思ったポイントは、「幼少期の省略」だった。
皆さんはDQⅤで印象に残っているところはどこか、聞きたい。
もちろん人によってそれぞれだろう。
けれども、私の友人含めて共通していたのは、「幼少期がとても印象に残っている」という点だった。
「幼少期」はゲームの中でも、裏ボスを倒すまでの全過程でみたらかなり短い。だからこそ、監督はここをカットしたんだと思うけれど、私にとってはここが一番DQⅤで思い出深いポイントだった。
もっとはっきり言えば、私にとってDQⅤが映画化すると聞いて一番見たかったのは幼少期だった。
というか、もし仮に映画の設定どおり、VRゲームとしてDQⅤをプレーし、ゲーム主人公の記憶を追体験できるのだとしたら、私はほとんどのプレーヤーが幼少期を省略することはないと確信している。
それほどにDQⅤの幼少期の完成度は高い。
冒険のドキドキ、ワクワク、友情、家族の愛情、初恋、それら全部がこの短い期間に詰まっていた。
私の人生の中でも暖かくて幸せな感情をこのゲームからもらったと思う箇所でもあった。
ここをカットした時点でこの映画に対する評価は地の底に落ちたし、ここをカットすることを選択した監督はDQⅤの魅力を何もわかっていないと確信した。
今回の映画のメインは結婚相手の選択になっているが、そもそも映画だけの経験でいえば、フローラもビアンカもほとんど話したこともなければ、そのキャラクター性も掴めない相手で、選ぶもクソもない。
特にビアンカとの絆は幼少期がもっとも大事なはずで、ビアンカを選ぶのなら、幼少期をやらないと話しにならない。
私も主人公と同じような年齢の頃、DQⅤをプレーして、幼なじみのビアンカに出会って、お姉ちゃんぶってるところとか、わざわざ起こしに来てくれるところとか、かといっておばけが怖くなると主人公に泣きついてくるツンデレなところとか全部が可愛くて、これが私の初恋だったと言っても過言じゃない。
夜寝静まった村の探索やレヌール城のお化け退治という名のデート、
幼少期のビアンカとの冒険はレヌール城攻略だけじゃなく、ブーメランや茨の鞭を買うまで何夜もかかるところ、マップ上行ける範囲を冒険しつくしたところも含めて記憶に残ってる。
そうしてレヌール城が終わってビアンカと別れたときは本当に寂しくて、どうにかビアンカに会う手段はないものかと模索したのも覚えている。
こうした過去に関するエピソードの紹介が一切ないままビアンカを選ぶというのはあまりにもビアンカの魅力をわかっていないし、ビアンカの魅力を見せる気がないとしか思えない。
映画で表現されているビアンカの魅力は何でも言い合える関係とのことだが、そうした関係になった部分を見せずして、なにを言っているのだろうか。
映画ではビアンカの幼少期エピソードを全てカットした上で、ビアンカとよくわからないいきさつで再会した上、よくよく考えたらやっぱりビアンカが好きだったとかいう脈絡も何もない気づきを得て結婚が進んでいくわけだが、はっきり言ってあり得ない。
映画を見ている限りでは、主人公の悩みには全く共感が持てなかった。そもそも当初は悩んですらいなくて、フローラに求婚した後に謎の薬を飲んで、悩み始めるという超絶白ける展開。
後にネタバレがあるのだが、薬を飲むと「フローラを選ぶ」、「自己暗示」とかいう白けるメッセージウィンドウが出てきて、さらにその奥までダイブしていき、やっぱりビアンカとなるわけだが、映画をみているときには「フローラを選ぶ」「自己暗示」というところで、「は?なにそれ?意味不明」となる。本当に好きとかじゃなくただの自己暗示ってなんだよ、バカにしてんのかとすら思う。
そんでもって、映画後半に元々現実の主人公が、VRゲームを開始する前にフローラを選ぶという暗示をしていたからこうなったということが判明するわけだが、これで「メッセージウィンドウの伏線回収できたし、納得!すっきり!」となるかといえば、全くならない。
むしろ、この主人公は、リアルにどっちが好きかを本気で悩み、葛藤していたというものではなかったと判明して、かえって不愉快になるだけ。
結婚エピソードを見ていたときに主人公の悩みに共感を持てなかったのはあまりにも当然だった。
しかも、そうしたVRゲーム開始前に設定していた自己暗示を、まったく説明されず、わけのわからない理由でもって破壊するという理解不能な展開。
こんなリアリティもなく、ただの茶番劇だったというオチをつけるなら、なんで劇中の貴重な時間をここまで割いたんだろうか。
それこそ「幼少期」のように全部カットして「ビアンカが嫁になりました」という結論だけのほうがまだマシ。
「この映画の結婚相手を選ぶエピソードが良かった」という評価をちらほら見かけるが、本当にそうなのだろうか?と、激しく疑問を感じる。
こんな何のドラマもなく、人間らしいリアルな葛藤も悩みもない茶番劇をみて何が面白いのだろうか。
しかもオチ以外の点でも、一度はフローラに求婚しておきながら、ビアンカに求婚するとかいう一途でもなんでもない浮気性な主人公のサマまで見せられて、不愉快になるばかり。
普通、求婚した以上、それを翻して婚約破棄するなら誠心誠意本人に対して謝るのが筋ではと、主人公の品格まで疑う。
同じ町の宿屋でビアンカとの結婚式をあげて、フローラに真実がバレることをしておきながらルドマンの好意に甘えて旅立つとかどんだけクズなのか。しかも、全部フローラの自己犠牲でしたというオチを付けるから、主人公のクズっぷりが一層際立つ。
子供の教育に良くないからこの映画は子供には見せられない。
ああいうオチにするなら主人公が直接フローラに謝罪に行って、そこでモシャスしてネタバレするって展開で良いのでは?
ラストの大人になれとかいうセリフの当否以前に、監督には普通の良識人になれと言いたい。
DQという影響力ある題材を使って、婚約相手に謝ることなく婚約破棄するクズ主人公にすることによる社会的影響を考えて欲しい。
謝罪という嫌なことから逃げておきながら、「キミは勇者」とか吐き気を催す。遠回しにキミは社会的に責任を果たすことはできない、ゲームの中でいきってるただのガキと言っているだけにしか聞こえない。
終盤で伏線回収する系は、あざやかに、かつ、爽快に回収して物語を展開するのが本当にうまい脚本だけれども、伏線を回収した結果、より不愉快にするのは二流以下じゃないだろうか?
せっかくDQⅤの素晴らしいストーリーをことごとく改悪するバカな脚本家(監督)だなと思う。
つづいて、ラストの部分含めた脚本全体の問題点であるが、
この映画のダメなところとして、冒険譚ではなかったことがよく指摘されている。
私もその通りだと思う。
子供から大人まで楽しめるDQ映画にするのであれば、最後まで冒険譚を貫くべきだった。
そして、冒険譚にするのであれば、一番冒険がワクワクする瞬間である駆け出しの「幼少期」は欠かせないし、ラストの余計な部分を省いて「幼少期」を入れていればここまで酷評はされなかっただろう。
この映画はラストに急に冒険譚ではなく、ヒューマンドラマに変化するのであるが、これが冒険譚を楽しみにしていた視聴者を裏切ることになった。
しかも、私からすると、そうしてわざわざ改変したヒューマンドラマが、上記のとおりあまりにお粗末で、不愉快になる伏線回収しか存在しないから、この映画を評価する気になれない。
その上、視聴者を白けさせる世界背景を説明するだけの長々としたセリフがラスボスからペラペラ告げられる始末。
今回のラストに納得したという方々は果たしてこんな説明口調なセリフ回しも含めて面白いと思ったのだろうか?
本来そうした背景・世界設定の説明は、物語を見せながら自然と視聴者に理解させるように展開しなければいけないのに、説明口調なセリフを、よりにもよってラストにラスボスの口から言わせるのは脚本家として一番やってはいけないことではないだろうか?
そんなのはラノベでやってくれと思うチープな脚本。というか、最近のラノベをアニメ化して失敗する例も、原作で出てくる設定説明部分を主人公が長々説明して白けるからなのだが、この映画も同じ過ちをしていると言わざるを得ない。
しかも、そうしてDQⅤの世界に無理やり登場させた裏設定だったからこそ、ウィルスの目的も曖昧だったし、その背景にある思想も不明だから、敵意含めて感情移入しようがない。
そもそもウィルスが忍び込んだのが、DQⅤのVR空間であるなら同時にプレーしている勢もいるわけで、何故に今回の主人公だけが戦っているのか意味不明。
というか、ゲームでバグが発生した際にプレーヤーが解決するというのは聞いたこともない。本来戦うのはゲームの運営スタッフで、中にいるプレーヤーはサバメンテでフリーズする中でただ解決を待つしかないはず。
映画では、本来、中にいるプレーヤーにはどうしようもない問題を無理やりワクチンプログラムが登場してそれを使って主人公がウィルスと戦うことにさせているけれど、結局ワクチンあるならやっぱり主人公が戦う意味なくない?と思うばかりで、冒険譚の要素を無理やり挿入してきたな、と失笑しかなかった。むしろ、こんな形でロトの剣を使われて残念だった。
他にも矛盾点は多数だが、最後の「ゲームも一つの現実」という言葉は映画化に消極だった堀井さんが監督を説得し続けてようやく入れてもらった言葉と聞いた。
この言葉を理解できていなかった監督が作った物語で、最後に監督以外の者の言葉で終わる、それこそがこの映画最大の矛盾点といえるだろう。
総評だが、この映画は評価すべき点はCGと戦闘だけで、脚本はDQⅤの魅力を全くわからず、かえって下げることしかできない監督が作った酷いものだった。
きちんとDQⅤをプレーし、その魅力を理解した脚本家が作っていたなら、このキャラCGと戦闘の表現を活かして最高の冒険譚にもできたと思うと残念でならない。