「表現の不自由な国で作られる映画の不幸」ワン・セカンド 永遠の24フレーム 高森 郁哉さんの映画レビュー(感想・評価)
表現の不自由な国で作られる映画の不幸
中国で毛沢東が主導した文化大革命の真っただ中、1969年のとある村を舞台に、映画館に関わる人々が巻き起こす「ニュー・シネマ・パラダイス」的な人情話……のように物語は展開する。
縁を切られて会えない愛娘の姿がニュースフィルムに1秒だけ収められていると知った男が、強制労働所から脱走し、村の映画館で観ようとする。だがフィルムが少女に盗まれたり、保管用の缶から飛び出して地面の泥にさらされ汚れたりと、なかなか上映される段にまでたどり着かない。当初は反目しあっていた男と少女だが、やがて奇妙な絆が生まれて……。
しかし観ていて、違和感を覚える点もあった。男はなぜ、1秒だけの娘の映像を繰り返し見せろとしつこく要求するのか。2年後に釈放されて、自分の娘ではなく少女に会いに行ったのはなぜか。
プレス資料に高原明生氏が寄せた解説(劇場パンフにも掲載されると思われる)を読んで、その理由が分かった。映画では元々、娘が事故で亡くなったことを主人公の男は知らされていたのだという。しかし、文化大革命が引き起こした悲劇という要素を、検閲当局が「あまりにも暗くて悲惨だと判断したため、編集を余儀なくされたものと思われる」としている。
確かに、死んでしまい二度と会えない娘の姿をせめて映像で見たいということなら、あの必死さも理解できるし、孤児の少女に亡き娘を重ねて釈放後に会いに行くのも納得がいく。だが、その肝心のポイントが検閲されてぼかされ、違和感のあるストーリーになってしまった。
監督は巨匠チャン・イーモウ。北京2022冬季オリ・パラで開閉会式の総監督を務めたということで、体制側に近い人物との批判があるのも無理はない。現在の習近平政権は、文化大革命そのものの歴史的意義は否定したとされるが、自らすでに「第二の文化大革命」を推進中との見方もあるようだ。いずれにせよ、文化大革命に関する話は現在の中国でも依然として取扱いが難しい、ということを本作は示唆している。
「孤児の少女に亡き娘を重ねて釈放後に会いに行く」と書かれていますが、私はただ単に、娘の映ったフイルムの切れ端をきっと孤児の少女が保管していてくれるだろうという一縷の望みで会いに行ったと思います。ですが二人の絆は初めて会ったときに比べると格段に深まっていて、最後の場面は父と娘のようでした。