「ガレス・ジョーンズが戦ったのは」赤い闇 スターリンの冷たい大地で 耶馬英彦さんの映画レビュー(感想・評価)
ガレス・ジョーンズが戦ったのは
この8月には第二次大戦当時の映画を4本観た。「海辺の映画館 キネマの玉手箱」「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」「ジョーンの秘密」「この世の果て、数多の終焉」である。そして5本目が本作品だ。5本とも戦争映画としては異色の作品で、それぞれに戦争に対するスタンスが異なっている。
本作品ではヒトラーが首相に就任した1933年に直接本人にインタビューをしたガレス・ジョーンズという実在のジャーナリストを主人公にして、一時期彼が顧問を務めたロイド・ジョージの名前を有効に活用するなど、あらゆる手を使って真実に迫ろうとした取材の顛末を描く。
映画の語り手がジョージ・オーウェルであることは作品の後半で漸く明かされるが、これはたぶん最初から分かっていたほうが観やすいと思う。蛇足ながらジョージ・オーウェルは「1984年」という小説でスターリン(小説内では「偉大な兄弟」)をモデルとした独裁抑圧国家の惨状を描いている。本作品の主人公ジョーンズと面識があったかどうか定かではないが、全体のために個を犠牲にするファシズムやスターリニズムを嫌っていた。
KY(ケーワイ)という言葉が日本で一時流行した。その場の空気を読めないという意味で、あいつはKYだからなどと人を非難するときに使う。また空気を読めと強要することもある。テレビでも「お前、空気読めや」などと芸人が頭を叩かれるシーンを見たことがある。一般人の間でも他人のことを空気を読めないといって悪口を叩くことがあり、それを聞かされる度に違和感を覚えていた。
空気を読めないと非難されるのは何故か。そもそも空気を読むとはどういうことか。どうして空気が読めないといけないのか。空気を読めないと場を乱すと言うなら、場を乱すことがどうしていけないのか。などと理由を遡って考えていくと、全体のために個の自由や意見を抑制しろというパラダイムに行き着く。それは全体主義のパラダイムだ。問題は「場を乱すことが悪いこと」というのが全体主義の考え方であることに気づかない多くの大衆の精神性にある。
「赤信号みんなで渡れば怖くない」という言葉がある。ツービートのネタで使われた言葉だが、考えてみれば恐ろしい言葉である。違法行為であっても集団のためなら許される(お咎めを受けない)という考え方だからだ。スターリンはまさに赤信号を渡った人間で、ロシア革命以前には反体制組織の資金集めのために銀行強盗を繰り返していた。銀行強盗を国家の指導者に据える国などないはずだが、全体のためにという大義名分によって犯罪者が独裁者になったのだ。
映画作品としてはジョーンズの活躍を描きたかったのか、その悲劇を伝えたかったのか、あるいはスターリン政権下での膨大な犠牲者の悲劇を伝えたかったのか、焦点がいまひとつ定まらないところが憾み(うらみ)である。しかし全体主義という大義名分を起点に考えれば、ソ連国内の人権無視や虐殺に触れないで国交を樹立したアメリカやイギリスの政策も構造は同じである。もちろん「お国のため」に数多くの犠牲者を出した日本も例外ではない。ガレス・ジョーンズが戦ったのは、世界に蔓延する全体主義のパラダイムであったのだ。