グレース・オブ・ゴッド 告発の時のレビュー・感想・評価
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信仰とは
説教がうまくて人心把握が得意な神父様は己の恐ろしい欲望から逃れられない。そこに被害者がいるのに認めない親。神父さんがそこから逃れるために辞めたくても教会の利益のためにそれを歪めてしまう人たち。見なかった気づかなかったことにしてしまうから悲劇が続いてしまう。いつまで大人の都合を子供に押し付けたら気が済むだろう。
切り口
カトリック教の司教の犯罪と、それを隠す枢機卿は、語弊があるけど、いつの時代も、どこの国でも組織が違えど起きる事で…特にキリスト教を知らなくても、この物語に理解は出来た。立件までのストーリーがオムニバスではないが、なかなか、興味深い流れで感心した。
被害者もそうだが、被害者の関係者までもが、センシティブな内容に目を瞑るのは、きっと、フランスでも日本でも同じだし、勇気を持つこと、仲間がいる事で生きる希望が見える事もフランスでも日本でも同じだと思った。
「被害を沈黙させられた」様々な被害者たちに見て頂きたい映画
当方、キリスト教会でモラハラ被害を受けた元牧師です。
この、フランスカトリック教会における司祭の児童性虐待事件を描いた「グレース・オブ・ゴッド 告発の時」を、大きな期待と密かな恐れを持ってを見に行きました。
「大きな期待」とは自分自身の感情の整理と未だ十分に言語化できない痛んだ心を誰かの言葉で表現して欲しいという思い。自分自身が少しでも癒されたいという渇き。
「密かな恐れ」とは描かれる加害者や周囲の心ない人たちの批判が、少しばかり似た境遇の私にも突き刺さりはしないかという恐れでした。
結論から述べますが、見て本当に良かったです。涙し、励まされ、こういう言葉をかけてくれる人が自分の周りにいたらどんなに心が楽になっただろうと思いました。
私にとってのハイライトは、二人目の主人公フランソワが警察から尋ねられるシーンです。多くの被害者たちがプレナ神父からの性虐待被害を沈黙せざるを得ませんでした。彼もまた大人になり無神論者になり、そして今までの生活が変わってしまうことを恐れ被害者であることを公にしようとはしませんでした。
多くの被害者たちにとって性虐待被害を言葉にするには20年-30年の月日が必要でした。ところが時効が成立してしまったケースもあり、プレナ神父は未だ法的に裁かれず子どもたちに聖書を教え続けていました。フランソワはそのことを知り、自分の約25年前の被害を警察に相談します。
「あなたは時効前です。告訴しますか?」と尋ねる警察に「告訴します。」とはっきりと言い切るフランソワ。彼の勇気ある告発が新たな被害を防ぎ、沈黙させられてきた被害者たちを癒し始めたのです。
私は自分が言ってほしかった言葉をフランソワにかけようと思います。
「よく言った。どれほどの勇気が必要だっただろう。どれほど苦しんだだろう。どれほど周囲の目が怖かっただろう。あなたの勇気ある告発によって新たな被害が生まれなくなった。」
一方、加害者のプレナ神父は被害者に対し「自分も子どものころ神父から性被害を受けた」と告白します。作中ではこの発言は、「同情を買うための詭弁だ」と表現されていました。ですが、私は映画を見る前から、事件の記事等を見てプレナ神父もかつて被害者だった可能性もあると考えていました。
プレナ神父の発言の真偽はともかく、作中で描かれる性被害を受けた男性たちは様々な苦悩を抱えています。家族関係、性的劣等感、社会への不適応など・・・それをオゾン監督は「性的虐待被害者を時限爆弾のように描いた」と表現しています。オゾン監督は被害者たちを「時間が経って爆発する爆弾を抱えさせられた」と理解しました。そして、これがオゾン監督が表現したかったことなのだと思います。被害者たちの様々な葛藤は本当に考えさせられます。
しかし、こう言うこともできるのではないでしょうか。「プレナ神父も時限爆弾を押し付けられた被害者だった可能性がある」と。
私はこのレビューのタイトルに、「被害を沈黙させられた」様々な被害者たちに見て頂きたい映画、と書きました。
これは第一に被害の癒しのためです。共感し、自分ができなかったこと、してもらえなかったことを映画で見るだけも癒される部分があります。
そして第二に、自分自身にはいつ爆発するかわからない時限爆弾が押し付けられていることを覚えておく必要があると思うからです。被害者の心は痛んでいます。身体ですら傷があれば自身の動きに影響が出ます。心をズタズタにされれば自身の言動に様々な影響が出てしまうことは避けられません。「時限爆弾を押し付けられた」という認識が必要なのではないかと思うのです。必要な助けを求め、新たな被害者、傷の連鎖を生み出さないためにも。
最後に、興味を持ってここまで見てくださったクリスチャンの方に。
隠蔽は神の義を軽んじた結果起こります。罪を矮小化するのは、神の義が軽んじられているからです。また、赦しとは罪を曖昧にし大目に見ることではありません。罪の深刻さを明らかにし、そんな罪人の私(あなた)だからイエスの十字架なくして生きていけないのですと十字架にすがる行為が、赦しを受け取るということです。
キリスト教会が罪を明らかにしないということは罪人を十字架から遠ざけることです(そして作中でも描かれるように、教会の罪も隠すために個人の罪を隠している)。社会的地位、プライド、信用、時として長年通った教会、そんなもの全部失った方が、裸の本当の惨めな自分で十字架に近づけるのではないかと思うのです。
私は主の最善だけが為されると心から信じています。被害に遭われた方々に主イエス・キリストの慰めと癒しがありますように。
いまだ戦いは続いている
予告で興味を持って観賞
カトリック神父の性的虐待を告発した人々の実話の映画化
なんかワールドニュースで見た覚えがある話でもありました
この映画の主人公は3人います
まず銀行マンの敬虔なクリスチャンのアレクサンドル
5人の子供も成長し長男が洗礼を受けようかという時期に
ふと幼少期自分が受けたプレナ神父からの性的虐待を思い返し
いまだ少年達と関わりを持つ神父から子供達を守るために
教会を通じてそれを認めるかどうかのために行動します
妻は積極的に協力してくれますが
両親はそんな時間の経ったことを今更と言う反応
教会もプレナ神父と会わせれば済むだろうという程度にしか
取り合わず神父も自身のペドフィリアは認めるも病気だから
仕方がないという他人事な対応でアレクサンドルは
怒りを通り越し落胆します
アレクサンドルはそこで他の性的虐待事件において
断固追及すると宣言した教皇の文言を引用し
バルバラン枢機卿にかけ合いますが神父の行為は
許せないが聖職を解くことはないと信じられない
返答をされついにアレクサンドルは教会を告発する
決断をします
…そして次の主人公フランソワ
性的虐待で告発されたプレナ神父の話を母から聞き
自身の虐待の経験から無神論者になっていたフランソワは
思い出したくないかのように関与を最初は拒否しますが
娘の寝顔を見るにいまだに少年達と関わりを持つプレナの現状に
怒りが爆発し神父と教会関係者もろとも罪を認めるよう
被害者の会を立ち上げ同じく虐待を受けた外科医のジルなど
協力者を募るとどんどん集まってきます
そしてそして最後の主人公エマニュエル
虐待による強いPTSDで身体や性格に支障をきたし
前述の2名に対し仕事も生活もうまくいっていなかったが
被害者の会設立を知り自身の体験を打ち明けます
この3人の主人公の違いはもちろんそれぞれの暮らし
体験や家庭環境がありますが何より大きいのは
告発自体の捉え方です
アレクサンドルは敬虔な信徒ですし家族が教会関係の
教師をしているのもあり教会主導による穏便な解決を
望んでいますが結局それがかなわず告発したのです
フランソワは無神論者になったし子供への危険をなくす事が
目的ですからなるべく世間にセンセーショナルに
伝わることが必要だと思って過激なアピールを画策し
あまりメンバーの賛同を得られていません
エマニュエルは前述の通り生活が上手くいって
おらず精神的にこの件に関与するとけいれん発作を起こして
しまう恐怖と向き合えずにいるところもありました
こんな調子ですから被害者の会のメンバーも数は
揃いつつも意見の相違がありなかなか方針が
決まらなかったり日常生活への回帰を望み協力を打ち切る
メンバーが出るなどしそんなんで強大なカトリック教会の
大組織とやり合えるかは不安しか残らないのでした
ただ被害者達に共通していたのは
苦しみを打ち明けるまでに何十年もの時間を要したことでした
その会合が終わりアレクサンドルは帰宅した長男に
「父さんはこれでも神を信じるのか」と
聞かれすぐ返答できず言葉に詰まったまま
終わっていくラストは印象的でした
そして衝撃的なのはその後のテロップ
この告発事件の裁判は未だに続いており
虐待行為を続けたプレナ神父を役職に起き続けた
枢機卿は無罪となるなど必ずしも被害者の会の意向に
沿った展開となっていないのです
決してハッピーエンドではないのです
こういった立場ある人間の性的虐待のニュースは
あちこち今でも見かけますが
反対運動が政治利用に使われたり
プライバシーを侵害したりうまくいっていない
現実がありますからこうした作品を観て
それぞれ考えてみるのも必要に思いました
おすすめしたいです
神父による性的児童虐待事件を被害者側から描く力作
仏国リヨンで妻と5人の子どもたちと暮らす金融マンのアレクサンドル(メルヴィル・プポー)。
敬虔なカトリック教徒の彼は、少年期にひとりの神父から静的虐待を受けていた。
そして、こともあろうか、件の神父プレナが、いまも子どもたちを教えていることを知る。
教会を通じて対面したプレナ神父は、アレクサンドルへの性的虐待の事実は認めたものの謝罪の言葉はなく、神父の上位者である枢機卿とも面談するが教会側の態度は煮え切らない。
思い余ったアレクサンドルは、プレナ神父を告発するが・・・
といったところからはじまる物語で、フランス中を震撼させた「プレナ神父事件」と名で知られるカトリック教会の児童への性的虐待事件を描いています。
丁々発止の裁判劇を期待していたが、本事件、現在も係争中というで、そのような場面はありません。
また、メルヴィル・プポーが演じるアレクサンドルを中心に映画が進展するのかとも思っていましたが、その後、フランソワ(ドゥニ・メノーシェ)、エマニュエル(スワン・アルロー)と別のふたりの被害者の物語へと引き継がれて、映画は多層構造を持っていきます。
この構造は、序破急の三部構成といえるでしょう。
序にあたるアレクサンドルの部で、事件を明るみに出し、
破にあたるフランソワの部では、被害者の会が結成されます。
当初、温和で大人しい人物にみえたフランソワが、会のリーダーになっていく過程で、過激で攻撃的な面を表に出していくあたりも興深いです。
急にあたるエマニュエルの部では、事件が明るみに出、会が活動する中で、救われ、新しい人生が始まろうとする様子も描かれます。
そして、特筆すべきは、アレクサンドルの立ち位置で、事件を明るみに出し、教会を糾弾するもの、カトリックへの信仰心は喪いません。
教会と信仰は別、というあたりが興味深いです。
実話を基にした社会派ドラマということで、フランソワ・オゾン監督の演出も正攻法なのですが、アレクサンドルの部は、彼と教会との間でやり取りされるメールをモノローグとして用い、書簡小説のように演出するあたりは、やはり非凡といえるでしょう。
それにしても、神父による児童性的虐待・・・
被害者のトラウマ、PTSDが凄まじいことが、この映画で伺えます。
本当にひどい・・・
虐待の加害者プレナも酷いのですが、それを知っていながら隠蔽し続けた教会組織の方が、より罪が重いと感じました。
なお、この事件が、『2人のローマ教皇』で描かれた、ベネディクト教皇からフランシスコ教皇に代わったきっかけになった事件ですね。
オゾンらしくないけど素晴らしい
被害者は数百人いるんじゃないかとも思われたプレナ神父の性的児童虐待。彼の被害にあった男子は何年もの間、被害を口にすることも出来ず、また親に伝えたものの軽くあしらわれたりして事件は表ざたにならなかった。そもそも親からすれば、敬虔な神父様がそんなことをするはずがないという固定観念によって、虐待の事実は闇に葬り去られていたのだ。
幸せな家庭を築いていたアレクサンドルが発端だった。未だに子供たちを教えている司祭となったプレナ神父に憤りを感じて、謝罪をしてもらうつもりで面会に応じるのだが、事実は認めるものの謝罪の言葉がなかった。バルバラン枢機卿にしても、教会としての罪を巧みにかわそうとするだけだったので、刑事告発するに至る。
一方で、時効が成立している匿名の被害者が告訴したことを受け、被害者の会を立ち上げたフランソワ。カブスカウトの名簿から同じように被害者を探し出して、皆で告発しようという目的だ。外科医の仲間や多数の被害者を見つけ、定期的に会合を開くようになる。
スカウトの子たちはほとんど裕福な家庭の子だったが、エマニュエルはそんな中でも両親の離婚により苦難の道を歩む。IQ140という頭の良さ(ゼブラと言ってた)が逆にあだとなり、友達もできない、仕事も恋愛もうまくいかなくなるという運のない人生を強いられてきた。プレナの名前を見るだけで痙攣発作を起こすという症状も痛々しい。
神父の贖罪、対する“赦し”を問う内容かと思ってたのに、全く違っていた。被害に遭った男子たちがカトリックの権威ともいうべき神父について沈黙を守らざるをえない状況。それを打ち破るための結束の物語。一人の神父とそれを擁護しようとする教会側との戦いでもあり、彼らのトラウマや人生の大半を台無しにされたことを世間に知らしめるものだった。
教会内の荘厳さを映し出していたりしているし、カトリック教会を非難したり糾弾するノンフィクションでもあるけど、宗教そのものを否定する作品でもない。教会の自浄作用、組織を正しく導くための訴えだと思う。中には信仰を止めるという者もいたけど、その時のアレクサンドルは結婚指輪を外そうか外すまいかと悩む姿を映し出していたし、キリストの教えは尊重しているのです。逆に会見でバルバラン枢機卿が不謹慎な発言をしたり、記者の痛烈な質問の方が的を射たりしていたのも面白いところ。
日本人にとっては馴染みの薄いところではあるけど、権威・権力によって性的虐待を受けることは親からの虐待事件と何ら変わりがない。親だから逆らえない。上司だから逆らえない。世間体、友人からは白い目、訴えれば逆にハニートラップだとして非難する輩もいる。有無を言わせぬ権力によって隠蔽工作する奴もいる。そんな世の中の暗部を真摯に描いたフランソワ・オゾンを称えたい。
3人の視点が良かった
フランスで、長年数百人にも及ぶ未就学男児への性的虐待を続けてきた神父に関する訴訟、「プレナ神父事件」を映画化。
ドキュメンタリーではなく、訴訟記録や証言から、再現フィルムのように作られた作品。
被害者は支えてくれる人の存在があって、言う勇気がでるのだなと。
そして恐怖と嫌悪感から身を守るためと、世間の好奇の目や仕事を喪う恐怖から、「なかったことにしたい」と思って沈黙する道を選ぶことが多いのだなと。
沈黙は更なる被害者を増やし、犯罪に加担することであると気づくまでに、人々は2~30年かかるという現実。
3人の視点で描いたのがよかった。
敬虔なキリスト教徒ゆえに、自分の子供たちを守りたい気持ちと、教会を変えたいという思いで訴訟という形で告発した「0から1にした」アレクサンドル。
棄教し、怒りからマスコミを使って世界に発信し、被害者の会を作った「1を100にした」フランソワ。
トラウマから、パニックを起こして失神を起こす障害を抱え、仕事も家族も持てなくなった「100の中の1」エマニュエル。
3人がそれぞれ、告発の<葛藤>、社会や家族との軋轢という<代償>、告発によって生まれた<希望>を表していたように思う。
そして浮かび上がらせたのは、犯人のプレナ神父は、自分が小児性愛者で、レイプ依存症であることを自覚していて、隠していなかったこと。
プレナは告発されるたび認め、子供に触れられないように、解任を(企業で言えば上司に当たる)地区教会の歴代枢機卿に訴えてきた。
しかし、組織を守るためと、プレナが信者と寄付金を集める才能に長けていたため、教会はずっと事件を隠蔽。
被害者の家族に「子供に触れさせない場所へ異動させた」と嘘をつき、町を変えただけで、プレナに同じ聖歌隊やボーイスカウトで子供に教える仕事を続けさせていた。
これ、完全に教会および枢機卿による、隠蔽と犯罪拡大(幇助)。
なのに、悪びれず「神が試練を与えた」「時効は神の祝福で罪を逃れられてよかった」と言い続ける枢機卿に、一番の怒りを抱きました。
別の事件ではあるが、神父の性的事件を告発するに至るまでのマスコミの苦闘を描いた『スポットライト 世紀のスクープ』と併せて見ると深みが出ると思います。
映画作品では『スポットライト ~』のように、訴訟に持ち込んだ人達の正義感の達成で完結することが多いと思うのですが、本作は訴訟が起きるまで言えなかった、普通の映画であれば「モブの一人」の心に至るまで、多角的・多面的に切り込んだところに意義があると思います。
時間的に、少々長すぎるのが難ですが。
2020年7月時点で未だ係争中ゆえ、この結末は今後も見守っていきたいと思いました。
主人公のスイッチがお見事
ノンフィクション物。
カトリック教会の性犯罪をテーマにしたものは「スポットライト」なり「二人の教皇」なり数多くあるが、きなり被害者側の視点になって具体的に映画化されていた。なので普通に勉強になる。
また特にアレクサンドル→フランソワ→エマニュエルと被害者となった主人公がスムーズに作品のなかてま移動していく。レベルの低い作品にありがちな「画面ブラックアウト白文字でチャプター○○」とならずに、それぞれの個性ある俳優に切り替わっていくところに感心した。
しかし、バチカンの上空に絵を描こうと空想したり、独走が目立つぽっちゃりメガネさんには感情移入できなかった。笑
孤独、共感、癒し
フランソワ・オゾン監督のストーリーテリングの巧さが際立ってました。2時間超の長い映画ですが、傷を受けた人々に引き込まれ、全く長さを感じませんでした。
子供の頃に受けた傷を癒すのは時間と仲間を作ることかもしれませんね。そう言った意味ではカウンセリング映画かもしれません。
行動を起こすことで傷は少しは癒えると信じています。
この監督には珍しい社会派映画
プレナ神父事件という実際にあった神父から少年への性的虐待事件を、3人のパートに分けて描いている。1人目の5人もの子供に恵まれたエリート銀行員アレクサンドルは、少年時代同じボーイスカウトにいた幼なじみからある時神父の性的虐待について聞かれ、突然当時をまざまざと思い出す。しかし既に時効となっており、どうすることもできなかったが、諦められず警察に告訴状を郵送する。それを受け取った警察は捜査を開始し、20年以上前に枢機卿あてに送られてきたある母親の手紙を発見し、連絡を取る。その当事者フランソワは兄とともにスカウトに入っていて、自分だけがいたずらを受けていた。フランソワはマスコミを使い、テレビや新聞の取材を受ける。その記事を見た女性が、同じ被害を受け未だにまともな社会生活が遅れていない息子エマニュエルに記事を見せる。彼らはまだ時効前だった。そうして3人をはじめ、被害者、証言者は集まった。神父は自分の性的志向をわかっていて、教会に告白していたという。神父が罪を認めても、教会側は神父を解雇しないし、責任も転嫁し合って認めない。一方で被害者の会の動きが活発化するにしたがって、バッシングが増え、またその当時すぐ近くにいた家族の心理も露になる。
どこかにフランソワ・オゾン風味がないものかと思ったが、それよりも真実を告発することに重きを置いたのかな。リヨンの街が舞台で、行ったことのある人には懐かしいかも(少ないと思うが)。
深く考えず観ました
こんなに重い内容とは知らずに観ました。まずもって長いです。2時間半程あります。物語に引き込まれれば時間は気にならないでしょうが、私は途中で「やけに長いな」と気付いてしまいました。お腹が空いたのも一因です。
重い内容ですが、まず最初に感じたのは「おおっフランスの家庭お洒落! イイなぁ、これが普通なのか?」でした。アレクサンドラはフランスでも中上流なんだろうなぁ。
その他、家にドラムセットがあって、夜中に叩きまくれる環境にも「フランスってこんな感じなのか?」なんて思いながら観てました。
肝心のテーマについては宗教観の違いの為か、私にはなかなか理解できない部分もありましたが、フランスでもこんなことが国のあちこちで起こっているわけでは無いのでは?と思いたいです。
【"沈黙の掟" 強大な権力を持つ"組織"が、長年に亘り隠蔽して来た事に戦慄する作品。】
- フランソワ・オゾン監督作品はストーリー展開が粗い事がある。
が今作品は、カトリック教会の小児性愛者、プレナ神父が幼き子供達へ長年に亘り、性的虐待を行った事実とそれを隠蔽し続けたバルバラン枢機卿及び関係者を大人になった被害者達が、苦悩しながらも糾弾する過程を丹念に描いている。
又、自己浄化機能を失っているカトリック教会自体も糾弾している作品である。
だが、カトリック教会の存在を否定するのではなく、教会を正しい”組織”として再生させたいという思いも汲み取れる作品である。
作品は3人の被害者の苦悩しながらも教会を告訴する過程を、リレー形式で描く。-
1.長年、幼き日々の哀しきトラウマに苦しんでいたアレクサンドラは、プレナ神父が赦しの言葉を告げなかった事と教会側の対応の遅さで重い腰を上げる。
-赦しを請わない彼の姿が、どこかの国の愚かしき組織とダブって見える・・。
"カトリック教会の神父の問題を解決する"という立場の老齢の女性の解決方法にも、脳内で”それで、終わりか!”と激しく突っ込む。-
2.被害者団体を立ち上げるフランソワも幼き頃の哀しい想い出が忘れられない。
-両親が信仰するカトリックの神父から性虐待を受けたら、激しいトラウマになるだろうし、両親に訴えても相手にされなければ・・。心の傷はいかほどのものだろう。-
3.エマニュエルは現在も、家族も持てず、まともな仕事にも付けない・・。ストレスが溜まると、激しく痙攣し、失神してしまう・・。父親とは、幼き日に実情を訴えたが、軽くあしらわれた事で不和状態。救いは母親が、且つてキチンと息子に寄り添わなかった事を深く後悔して、彼らの行動を支援する姿である。
-そんな彼らが意見や立場の違いを乗り越え、結束して行く様は勇気付けられる。
が、過去の出来事による、両親との不和、心に負った深い傷はそんなに簡単には癒されない・・-
-カトリック教会の社会的位置付けが絶対的な影響力を持つ風土では、あのような出来事は、”あってはならない”衝撃的な出来事なのだろう・・。
そうでなければ、アレクサンドラが最初に告訴してから、プレナ神父への裁きの時間の長さが理解出来ない。しかも、それはまだ、問題の端緒である。-
<そんな彼らが、幼き日のトラウマを乗り越えようとし、少しでも前に進もうとする姿が心に沁みると共に、"隠蔽体質"はどこの国、組織にでもあるのだなあ、と哀しい気持ちになってしまった作品。>
■蛇足
ジャーナリストサイドから、アメリカのカトリック教会の同様の事件を描いた作品に「スポットライト 世紀のスクープ」があります・・。
心の傷は簡単に癒えず
2時間半くらいあったのかな。実話ベースという事もあり、また被害者一人にスポットライトを当てるのではなく複数の被害者にスポットライトを当て負った傷、深い苦しみを丁寧に描いておりあっという間に時間が過ぎとても見応えのある作品に感じた。
宗教団体が国の一つの省庁となりそこの汚職と戦うのはやはり並大抵の事ではない。いろんなしがらみから加害者を守ろうと働き、それがかえって被害者達をさらに苦しみ未来を不安にし暗くする。
今作で描かれていた被害者達も何度も挫折をした。しかし被害者同士が交流し、互いに意見を交換し合い時間を共にする事で戦う姿勢、火を消す事なく戦い続ける事ができたのではないか。
このあたりの戦う描写は非常に心に響くものはあった。
この事件は加害者の神父を罰することはできたものの、組織自体を罰することは現時点ではできていない事がエンドロールで伝えられた。
ただ彼らが動いた事で、これ以上の加害者を生む事への防止、そして時効の引き延ばす事は成功した。これはこれから生きる若い者達の未来へ大きく貢献したわけだ。
では加害者達の心の傷は癒える事ができたのか。残念ながらこの作品だけではそれは分からない。少なからず動く前、そして動く事なく真実を闇に葬る事に比べたらいくらか傷は癒えたのかもしれないが、完全に癒えることはないように思える。
加害者の神父はその時の出来心のような発言をしていたが、加害者にとっては一時の行動にすぎなくても傷つけられたものは、そしてその家族は生涯におってその傷と付き合っていかなくてはならなくなる。
また人の心の傷とはなかなか理解しにくいものである。
家族ですらそれが分からず、我慢を強いたり、この作品内でもあったように「何で今更告発を?」なんていった言葉が出たりしてしまう。
それはもちろん仕方のない事かも知れない。人の心の傷なんてものは十分に理解できる方が数少ない事であろう。だから大切なのは人を傷つけない、そして時には傷つけないように守ってあげる事が大切になってくるのであろう。
そういう気持ちが時として周囲に傷ついたものが現れた時、少しは理解する事に繋がるのではないかと思う。
昨今で言えばネット上の誹謗中傷なんかも同じ事が言えるのではないか。
この作品を見て改めて人を傷つけない事、そして相手を思いやる事へのを大切さを感じ、そしてそれ以上に自分が傷つかない事の大切さも感じさせてもらった。
人の心は思ってるいるよりも脆いものである。人を優しくし傷つけない事は当たり前だが、自分のことも大切にしないと簡単に心は壊れ人生を奪われてしまう。
人の心の大切さを改めて考えさせてくれる、そんな作品だった。
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