「喜劇」ジョーカー Croさんの映画レビュー(感想・評価)
喜劇
自分も家庭環境が酷く、躁鬱を患っていて、才能を認められないとジョーカーには親近感が湧く側の人間としての評価であることが前提にある。
とはいえ、それはあくまで「他者が自分のことを見たら」鬱屈として無敵の人になるのかならないのか……どっちなんだい! といったように見えるというだけであって、自分自身は楽天的だし、自身の人生にとって有害な親や親族は全て縁は切っている。才能は世間に認められてはいないが、この世界は「楽しんだらクリア」というスーパーマリオの1-1よりも簡単なゲーム内容なので、あまり成功や金銭に執着は無い。曲を作ってゲームを作って絵を描いて……友達と遊んで。それだけで十分幸福だと言えるからだ
だからどれだけ屈折し、追い込まれ、そうするしかなくなったとしても、自分はジョーカーのようにはならないと確信している。その上で、きっと人生においてあまりに辛すぎる経験の数々によって麻痺した心がマトモに機能していたのなら、ジョーカーが自分の心に溜まった怒りや憎しみの澱を浄化してくれたようにも思えた。したくても理性によって留めていた拙いルサンチマンを、自分の代わりに解放してくれる快感、カタルシスを覚えただろうな。と素直に思ったのも事実だ
ジョーカーは去年の秋くらいに見たんだけどレビューできずにいたのは親の自殺未遂が何度もあって、縁は切っていても警察やら病院から呼び出されるので忙しく、その関係で金銭的にも時間にも余裕が持てなかった為である。それはまぁどうでもいい。誰が死のうが生きようが関係のない話だし、自分にとって人生のあらゆる判断基準は「楽しいか楽しくないか」の二点のみであるので、親が自殺未遂で病院に運ばれ駆けつけた時も
「楽しくないことに時間使わされて不快だなぁ」
という事だけを考えていた。それが毎月の様にあれば尚更だ。さっさと死んでくれたら楽だけども、葬式やらが面倒だし死んだら死んだでダルいなぁ、と。そのくらいにはもう無頓着である。無頓着であるが故に、きっとこうして楽しく生きられているのだろう。
なのでジョーカーのような道を歩むことはないと言えるのだけれど、それとは別として私は頭がよくない人が嫌いだから、例えば元日の震災でデマを流したり、人工地震がどうのと騒ぎ立てている人間を見て「こいつら死なないかなぁ」とぼんやり思っていた。陰謀論を信じようが信じまいがその人の勝手だけれど、今必要なのは被災者の無事を祈り、被災者にとって有益で確実と言える情報を拡散することだ。陰謀論の考察はその後にいくらでもしたらいい。
彼らは真実に気づいていると言う。このままでは日本が危ない!と。日本の為に、人の為に、救ってやりたいから真実を拡散しようという感情が彼らを突き動かしているのだろう。だって他人などどうでもよければ、真実を拡散などせず頭の悪い人間が陰謀に殺されるのを待っていればいいだけなのだから。
けれどそれでも真実とやらを拡散させるのは「自分は他の人が気づかないことに気づくことが出来る特別な人間だ」と信じ悦に浸りたいからか、「陰謀で被害を負う同族を見捨てられない」という正義心かのどちらかでしかないからだ。
彼らは後者だと言うだろう。だがその時点でもう彼らは破綻しているのである。だって、同族が苦しんでいる時に投げかけてやる言葉が応援でも心配でも、有意義な生活の知恵でも要救助者の情報拡散でもなく、人工地震がどうやって起きるかを説くことだけ。彼らは一体何を守りたくて真実を訴えているのだろうか。
同族を守りたくて真実を訴えているはずなのに、そのことに夢中になりすぎて、目の前で苦しんでいる同族を無視するどころか不安を煽るような情報ばかり拡散させて苦しめている。一体彼らは何と戦い、何を守ろうと必死になっているのだろうか。
政治批判をずっと繰り返し、著名人の誹謗中傷を繰り返し、確定してもいないゴシップの情報を鵜呑みにして誰が悪いだのと宣う。
私は、この人生をあらかた楽しんだあとは、こういう人間たちを片っ端から殺して回ったあとに死ぬのも悪くないかもな、と危険極まりない考えも度々よぎるのである。
別に人間がよりよい社会を!とか。
人間が地球の癌だから全生物の為に!とか。
崇高な目的などがある訳でもないし、優生思想など微塵も興味はない。もちろん人を殺して平気なんだ俺は、心がないからね。……なんて厨二病のようなことを言うつもりもなく、怒りで我を忘れようが人を殺すなんて出来るはずもない小心者である事は自覚している。
だけど、この世界に生まれた以上「楽しむ」以外に出来ることなどなく。
この世界に生まれたことでしかできない……美しい景色を見て、音を聴いて、味わって。あらゆる経験がこの世界を遊び尽くす、ということなのであれば「殺す」という経験も、折角生まれたのだから楽しんでおかなければもったいないと思うのだ。
いや、楽しくなんかはないだろう。主観的な視点で言うなら。私は誰かが喜んでいるのを見ている時が一番幸せだし、傷ついたら何とか助けてあげたいと、ボランティアに参加したり、3.11の時も溜めていたお小遣いを全額募金したりだってしてきた。優しい気持ちはちゃんとまだ残っているはずだ。
そんな気持ちを持ちながら「頭が悪く性根の腐った人間を皆殺しにしたい」と思うことははたして矛盾しているのだろうか。倫理を大切にしながら、知的好奇心の為に倫理を破り捨てることは人間にとって自然なことだと思う。
みんな、私が頭がイカれてると思うかもしれない、という思慮はきちんとある。至って正常な判断能力を有しているから。理解される必要はないし、されたいと思ってる訳では無いけれど、時々無性に寂しさを覚えるのもまた事実だ。
陰謀論者についていきなり批判したり、どうでもいい身の上話をしたり、情緒不安定に写るだろうけど、要はそれら全て引っ括めて「ジョーカーという映画のレビュー」だ、という事だ。分かるだろうか
私はこういった気持ちを抱えながら……。いや、抱えるなんて悲愴なものではないか。抱いていることすら普段忘れてしまうくらい誰かの笑顔の為に楽しく暮らしているが、心にはずっとそんな濁って澄み切った感情の澱が溜まっている
そんな全てを「俯瞰して見りゃ喜劇だから」と、私は私の感情や人生の全てを笑っている。私はずっと前から、自分の人生を喜劇として見ることが出来ているから、ジョーカーを見ても無敵の人になるようなことはないと思えたし、これが社会に悪影響を及ぼすようなものでは無いとも断言出来る。これを見たくらいで行動に起こせる人間は、鬱屈した負の感情を溜め込んだって人を殺すことすらできないような、何も成すことのできない不良品ではない
皆が皆、私のように見境なく幸福を貪る獣ではないのだから